私の好きな日本の童謡・唱歌(1)

 多くの日本の童謡、唱歌には季節や四季折々の行事にあった様々な歌があります。それらの歌は郷愁をさそうものもあり、また人それぞれの人生で心にしみるものがあります。我国では明治以来近代化を進める上で国民教育に力を入れてきました。その中で唱歌教育を採り入れました。
 明治時代に始まる小学校の唱歌教育はその目的を、「凡ソ教育ノ要ハ徳育知育体育ノ三者ニ在リ而シテ小学ニ在リテハ最モ宜ク徳性ヲ涵養スルヲ以テ要トスヘシ。。(省略)。」 
 つまりは教育には徳育、知育、体育の各教育目標があるが、小学生年代にはもっとも徳性を涵養することが目的であり、音楽には人の心を正しくし、徳による教化を助ける性質があるので、唱歌を必須の科目と定め、小学校でも必ず学ぶべきものとした。
 そして西洋音楽も多く採り入れら教育目的として鉄道唱歌はじめ多くの唱歌が作られました。
 日本の歌百選(にほんのうたひゃくせん)は、2006年(平成18年)に日本の文化庁と日本PTA全国協議会が、親子で長く歌い継いでほしい童謡・唱歌や歌謡曲といった叙情歌や愛唱歌の歌101曲を選定したものです。
一般から募った895曲から選考委員会が選出し、2006年12月15日に最終的に決定した。発表は2007年1月14日に新国立劇場で行われ、これらを歌うコンサートも合わせて開催された。「親から子、子から孫へ~親子で歌いつごう 日本の歌百選」の選考委員会が、平成19年1月14、選出した101曲を発表しました。1曲多いのは、絞りきれなかったためだそうです。
 子供の頃に覚えた童謡というのはいつも心に残るものです。なんと100曲選定されていますが、すでに100年以上も歴史のある歌や今の時代にはマッチしない内容や難しい歌詞の歌もあります。大切なことはこれらの童謡・唱歌は時代を超えて歌い継いでいきたいものでありとくに個人的に好きな歌をまとめてみました。みなさん今回紹介しました童謡・唱歌を覚えていますか。歌詞をみないで2番まで覚えていますか。世代を超えてだれもが学校で習ったいうべき日本の唱歌・童謡は何度聞いても飽きないのは、原風景というべき日本の四季折々の情景をうたった唱歌・童謡のもつ魅力でしょうか。 これらの歌は日本の歌100選の曲「親子で歌いつごう日本の歌100選」のページで全曲が紹介されています。」
  下記の画像はすべて
YouTubeに掲載中の曲 より画像も引用して参照しています。)
 心にしみる日本の童謡・唱歌      春
1早春賦 (そうしゅんふ) 作詞 吉丸 一昌 作曲 中田 章
 吉丸は、大正の初期に長野県安曇野を訪れ、穂高町あたりの雪解け風景に感銘を受けて「早春賦」の詩を書き上げたとされている。題名に譜面の「譜」でなく、「賦」という漢字の意味を調べてください。
 文字変換ミスでなく「賦」は詩文に対句を用い句末に韻をふむ美文韻の詩文に賦が使われます。美しい歌詞です。 立春は二十四節気の1つで、冬至と春分の中間にあたり、この日から立夏の前日までが暦の上での「春」となる。通常は2月4日頃で、九州など暖かい地方では梅が咲き始める。立春の前日は節分、立春から数えて88日目を八十八夜と呼ぶ。「茶摘(ちゃつみ)」ではこの八十八夜が歌詞に歌いこまれている。
2 花       作詞 武島 羽衣    作曲 滝 廉太郎 
「春のうららの隅田川」の歌い出しでお馴染みの歌曲『花』は、滝廉太郎作曲の歌曲集『四季』の第1曲。「隅田川に」震災の暗いニュースが続く中で3月18日に東京スカイツリーの高さが、最高のムサシ(634m)に到達いたしました。
 もちろん電波塔では世界一の高さです。何でもNo.1を目指して努力することは大切なんです。明るいニュースとして復興の励みになってほしいものです。この「隅田川」を望む所に位置するスカイツリータワーは川岸の桜並木とともに東京の名所になることでしょう。
    敷島の大和心を人問わば旭に匂う山桜かな」. 
  日
本人とって花といえば当然桜です。
   
3 おぼろ月夜   作詞 高野辰之 作曲 岡野貞一
 1914(大正3)年、『尋常小学唱歌(六)』に発表される。
 昭和23年)から小学校6年生の音楽教科書において採用され、平成以降も取り上げられている。御存じですか。おぼろ月夜の歌詞と解説が見たことがないですが、東京渋谷の代々木上原駅高架下に日本語。英語。で書かれているらしいです。この辺りは昔は菜の花畑が広がるのどかなところだったのでしょうか。昔の大山町高台の菜の花畑を描いた歌詩であり、又「春の小川は」隣駅の代々木八幡駅とのこと。高野先生のご自宅は20分ぐらいの場所です。
4茶摘み    作詞作曲ともに不詳。
  来年でちょうど100年前の1912年(明治45)『尋常小学唱歌 第三学年用』として発表された文部省唱歌。オリジナルの曲名は『茶摘』である。摘という字は 小学校で習わないので教科書では『茶つみ』と表記している。]京都府綴喜郡宇治田原村(現:宇治田原町)に伝わる茶摘み歌「向こうに見えるは茶摘みじゃないか。あかねだすきに菅の笠」、「お茶を摘め摘め摘まねばならぬ。、歌詞の二番にある「日本」は元々は「田原」だったという。摘まにゃ田原の茶にならぬ」から取られたのではないかという説がある。
   
 
 1 夏は来ぬ 作詞佐々木 信綱 作曲 小山 作之助
 
明治5年に東海道44番目の石薬師宿で生まれた佐々木信綱の作詞である。生家は保存され、その隣に資料館が作られている。地区では「卯の花の里」づくりに取り組んでおられます。明治29年に小学校5年生用の音楽教科書『新編教育唱歌集(第五集)』に掲載されました。 佐々木信綱は、三重県鈴鹿市出身の著名な歌人・国文学者で、息子の治綱、孫の幸綱も、歌人・国文学者として多くの業績を上げています。 
この歌の歌詞には時鳥、忍音、早乙女、水鶏(くいな)、など中学生でもちょっと難しい内容ですが、この曲は初夏の澄み渡る風が水田を抜けてカエルが鳴く風景を連想できるすばらしい曲です。
 日本はやはり瑞穂の国であり水田は人と自然が共生した日本の原風景です。都市近郊では年々水田が減少するのはさみしい限りです。
 2 夏の思い出  作詞 江間 章子  作曲 中田 喜直
 1949年(昭和24年)NHKの『ラジオ歌謡歌」で 流れた曲で 藤山一郎やシャンソンの石井好子が歌い後にレコードを発売した叙情歌。
実際には、尾瀬沼で 水芭蕉の花が見られるシーズンは、夏では無く5月末の春先、作詞の江間章子が、夏に水芭蕉をみられる土地で過ごしたせいだからでは無いか?と言われています。
 作曲の中田喜直は、父親は早春賦(そうしゅんふ)の作曲家中田章。父親が春なら中田喜直の代表曲は、「小さい秋見つけた」「雪の降る町を」で夏、秋、冬と親子で春夏秋冬をカバーしています。
 私の個人的な印象ですが、以前中国人留学生で現在歌手として活躍の李広宏氏が日本の唱歌・童謡曲の美しさに感動し中国語で歌う「日本の心の歌」のコンサートが伊丹市で開催されました。
 その時日本に来てこの歌に大いに感動したエピソードを語っておられたのを思い出しました。(Youtube TVTBCより。)
3 我は海の子  作詞、作曲 文部省唱歌
1910年(明治43年)に『尋常小学読本唱歌』で発表された文部省唱歌。
作詞者は不祥とされていたが、1989年5月に作詞者の娘が、文部省の懸賞募集に応募した鹿児島市出身の宮原晃一郎(1882-1945)の詩が採用されたとされている。なかなか元気の出るいい曲です。この歌詞の意味をいまの中学生はどれぐらいわかるのか気になるとこいろです。
 鹿児島市の祇園之洲公園にはこの歌の歌碑が建てられている。歌詞は全部で七番まであるが、今日歌われるのは一般的に三番までとなっています。ほとんどの人は1番ぐらいしか知らない歌でもあります。
 驚いたことに7番の歌詞「いで軍艦に乘組みて 我は護らん海の國」は国防思想や軍艦が登場するという理由でGHQの指示により教科書から削られたとのこと。ひどい話である。日本の戦後占領時期には民主化といいながら、多くの分野で世論形成のための情報操作やメディアの隠蔽が行われ、こんなところまでGHQの検閲がされていたのですね。
 今回の震災復興でその使命を果たしている自衛隊を「暴力装置」と言う政治家がいるのは、いつも「軍隊=悪」と教えられてきた戦後教育の影響でしょうか。周囲を海に囲まれた日本は「海の国」です。今後資源のない我が国で、将来有望視されている海底のメタンハイドレード資源を守ることが大切。この歌は1947年以降、小学校では3番まで教えられています。2007年(平成19年)に「日本の歌百選」に選ばれました。
4海    作詞、作曲 文部省唱歌
 宮原晃一郎作詞による「我は海の子」(1910年)とならび海をテーマとする唱歌として夏の代表的な歌。
 1913(大正2)年、『尋常小学唱歌(五)』に発表。この歌は大正2年5月尋常小学唱歌として定められたものです。
私達の習った教科書に載っている「鯉のぼり」「冬景色」も、同じ尋常小学唱歌にはじめて収められております。

 この歌の2番の歌詞になると「島山闇に著(しる)きあたり、いさり火ひかり 淡し寄る波 岸にゆるくして浦風かろく いさご吹く」。
 どういう意味でしょうか。日本唱歌集(堀内敬三、井上武士編 岩波文庫)を見ると、古語辞典を見ると「著るし」は「はっきりしている。一目でわかる、明らかだ」とあります。

 「暗闇の中に月明かりで島や山の輪郭がはっきり浮かんでいるさま」を現しているのでしょうか。また「沙(いさご)」も現代人にはわかりませんね。「日本唱歌集」では「沙」と表記されています。「沙」とは「砂」のこと。「ゆるい浜風が砂浜を渡っていく」といった意味でしょうか。次の世代に伝えていくにはちょっと難しそうな歌です。
   
心にしみる日本の童謡・唱歌      秋
1 赤とんぼ    作詞 三木露風    作曲 山田 耕作
 ネット上の質問サイトには日本語を勉強する外国の留学生などから童謡などの古い表現に質問が掲載されています。 
 
この歌の「ゆうやけ こやけ」の小焼けって何?という疑問は起こるのは当然です。「なかよし、こよし」と同じで表現に語調を整えているためで、意味よりも日本語の美しさです。まあそれよりもこの歌の作詞三木露風(みき ろふうは兵庫県揖西郡龍野町(現在のたつの市)出身の詩人です。明治22年(1889年)に生まれた露風が33歳のときに作詞しました。遠く北海道にいて朝な夕な津軽の海を望むとき、彼の心に去来したものは故郷の思い出ではなかろうか。単なる姐やの思い出ではなく、望郷の歌であり、母恋いの歌と思われます。しかし四番まである詞のどこにも「毋」は登場しません。露風が五歳の時、両親は離婚しました。その後北海道で洗礼を受けるのですが、函館のトラピスト修道院でこの詩を作ったといいます。時代の流れのなか、昭和22年文部省教科書に所載の折は 三番の歌詞は抜いて載っていたというエピソードもあります。
 この詩は、起承転結になっているので、続けて四番まで歌ってこそ意味をなすものです。自分の面倒を見てくれた「姐や」への想いに、露風の孤独や哀しみが込められています。三番を削除してしまうと、楽しい思い出だけを歌った歌になってしまいます。今も、おさと(実家)がどこを指しているのか、嫁に行った「姐や」の解釈。また現在の婚姻制度では、15歳の結婚は認められていませんので削除したのかよくわかりません。3番があってはじめてこの歌が活きる内容です。
2村祭  作詞不詳(葛原しげる?)作曲不詳(南能衛?)
      編曲 源田俊一郎
 
「村祭」は明治45年に小学校3年生向けの音楽の教科書「尋常小学唱歌(三)」に掲載されて以来、広く歌い親しまれるようになった童謡です。山口県熊毛郡田布施町にある「ふるさと詩情公園」に歌碑が建っているそうです。 まず作詞した人ですが、当時童謡作詞家だった葛原しげるさんの長女によると葛原さんは生前に「村祭は私の作詞だと」とおっしゃっていたそうなのですが、いつどこで言ったのかがはっきりとされていません。
 そして作曲ですが、オルガンなどの楽器製造に尽力し、小学唱歌編纂委員を務めていた南能衛(みなみよしえ)さんではないか?との説があります。しかし、南能衛さんの息子さんが「父は盛岡に旅行したことがありました、そこで農村のお祭りにであったのですね。その印象が、のちに村祭に結実したという話は、じかに聞いたことがありますと言っている一方で「課題を与えられたあとの1909年10月、小学唱歌編纂委員として群馬県に出張して実際に村祭を見て曲想を得た。そのときの出張命令や記念品が残っている」とも発言していて、矛盾しています。このように確たる証拠が無いことから、未だ作詞者・作曲者共に「不詳」と表記されるのが一般になっています。 
3 里の秋  作詞 斎藤 信夫 作曲 海沼 実
 作詞者である斎藤信夫はかつて小学校の教師であり、詩を書くことが好きで詩作しては童謡雑誌に投稿していた。作曲者・海沼實との出会いは昭和12年ごろである。 教育者向けの雑誌で知り合いお互いが童謡にかける抱負を語りあったといわれています。
 月日は流れ、日本は戦争へと傾いていく。「里の秋」の原型となる「星月夜」という詩を書き上げたのはそんな頃だ。千葉県の九十九里浜に近い成東町(なるとうちょう)には現在「里の秋の歌碑」がある。昭和20年8月15日、幾多の犠牲をもたらした太平洋戦争は終った。しかし斎藤は多くの教え子を戦場へ送ったことに耐えられなくなり、教師をやめてしまう。自分の過ちを素直に悔い、職さえも投げ出す骨太の教師がいた。
 戦後NHKでは復員してくる兵隊さん達を歓迎する番組を放送することになり、そのときに流す歌を作ることを海沼へ依頼し、海沼は斎藤信夫の当時の詩に目がとまったのである。そして復員兵を迎える内容の詞を斎藤に依頼して作られたのがこの「里の秋」である。「ああ 父さんよ ご無事でと今夜も 母さんと 祈ります。」という南の島(戦地)での安否を気遣う部分である。
追記:第五回国護り演説大会(優勝講演)なぜ昔の人は戦争したの  途中6'50''から歌あり。
4 紅葉 作詞 高野辰之 作曲岡野貞一 編曲 中野 義見

 1911年(明治44年)『尋常小学唱歌(二)』にて発表された。作詞者の高野辰之は、碓氷峠にある信越本線熊ノ平駅(現在は廃線)から紅葉を眺め、その美しさに惹かれてこの詞を作ったという。
 2007年(平成19年)に日本の歌百選の1曲に選ばれた。

 日本の秋の童謡といえばこの「もみじ」が定番。今の子ども達にも充分理解できる歌詞表現である。

 1番は山の緑の中のモミジの美しさを歌い、2番は紅葉が川の水に浮いて彩どりを添える美しさを歌ってます。全体的に秋の樹木といえばやはり紅葉であり、素直に深まりゆく秋を感じさせてくれる歌です。

心にしみる日本の童謡・唱歌      冬
1  たき火   作詞 巽 聖歌   作曲 渡辺 茂
  1941年(昭和16年)に、NHKのラジオ番組「幼児の時間」の番組案内のテキストである『ラジオ小国民』で詞が発表され、同年の12月に「幼児の時間」の放送内で楽曲が発表された。2007年(平成19年)には日本の歌百選に選出された。
巽の生誕地の岩手県紫波町にある紫波町総合公園、巽が中野区から引っ越して生涯住み続けた東京都日野市にある旭が丘中央公園、そして兵庫県明石市の二見公園の3ヶ所にある。今は垣根の曲がり角でたき火はできない時代になりました。教科書に掲載する際には挿絵に焚き火と人物だけでなく、火消し用の水が入ったバケツが描かれるようになった。また、「しもやけおててがもうかゆい」とある2番の歌詞に着目した化粧品会社が、子供用クリームの宣伝にこの作品を使いたいと、巽のもとに依頼がきたこともある[2]。巽は宣伝に使われれば高額のギャラが入ることを知りつつも、「教科書に載っている歌を宣伝に使うのは困る」と断ったとのエピソードがある。
2冬景色      作詞作曲ともに不詳。
 大正2年5月発行の『尋常小学唱歌』(文部省)第五学年用で発表されました。曲は、四分の三拍子です。美しい日本の国土と三拍子を学習するために作 られました。以来音楽の教科書に掲載され続け歌い継がれています。
 この「冬景色」は真冬の歌ではなく、霜が降りてこれから厳しい冬を迎える時期に入るころの歌で雪が出てきません。
 「さ霧」とは、霧のこと。「さ」はただ単に語調を整える接頭語。「さ霧消ゆる」は、秋は去った事を示す。「霧」は、古くは四季を通じて用いられたが、平安時代以降は、春立つものを「霞」、秋立つものを「霧」という。その霧が消えたので、もう初冬です。
 「小春日」とは、陰暦の十月(現・十一月下旬~十二月上旬)冬の初めの暖か い日です。かへり咲の花」とは、春を開花期とするサクラやウメ、ツツジ、ヤマブキな どが、初冬の小春日和の陽気に惑わされて、突然花を咲かせる事があります。この時節外れの開花を「返り花」「忘れ花」「返り咲き」「帰り咲き」「二度咲き」などと別名も多くあります。初冬の情景をよくあらわしています。   
3 星の界(よ) 作詞 杉谷代水  作曲 コンヴァース
 
 冬の歌でよく題名を間違うのが「星の世界」「星の界(よ)」ですが、曲はコンバースの曲で作詞者が川路柳虹が「星の世界」、そして杉谷代水が作詞の「星の界(よ)」が今回紹介する歌です。
 この曲は教会で結婚式やお葬式のときによく歌われます。
讃美歌312番の「いつくしみ深い友なるイエスは」と同じ曲です。この讃美歌は、アイルランド人のJoseph Scrivenが母に届けた詩「What a friend we have in Jesus」に、1900年代初期、アメリカ人のCharles Crozat Converseが曲を作り発表したところ大評判になりました。
 まぎらわしいので曲の整理すると
「木枯らし途絶えて」(ドーレミソラドソーミー)が「冬の星座」です。
「いつくしみ深き友」(ソーソラソミドドーラー)が「讃美歌312番」(リンク)
*原曲の讃美歌312番「What a friend we have in Jusus」となります。
冬の夜空に輝く星はまた格別のかがやきと趣があることをいずれも詠っています。
4冬の星座 作詞・作曲:W.S.Hays、日本語詞:堀内敬三
 
冬の夜空の輝く星を歌ったこの愛唱歌は、昭和二十二年七月発行の『中等音楽 1』(文部省)に発表されました。中学校一年生用の教材です。
 アメリカの作曲家ヘイズが作詞・作曲した『Mollie Darling 愛しのモリー(1872年)』に、堀内敬三が作詞したものです。

 この歌が、日本で最初に歌われたのは、1911年(明治44年)、中村秋香作詞の「他郷の月」としてでした。
 戦後、「冬の星座」が歌われ出すと、「他郷の月」は歌われなくなりました。
  原曲はアメリカの作曲家ヘイズが1872年に作詞・作曲した『愛しのモーリー(Mollie Darling)』。これに堀内敬三が日本語詞をつけ、昭和22年(1947)に中学の音楽教科書に掲載されました。
 それ以前は国文学者で歌人の中村秋香が作詞した『他郷の月』という歌詞で歌われていました。