*清酒の発祥地と鴻池家 * 
鴻池新衛門生誕440年記念イベントが開催されます。(今年2010年12月5日)
*伊丹酒と鴻池家* 参考:-伊丹小史-(大手前女子学園編)より
伊丹市の北部に鴻池という町名の地区があり、現在では閑静な住宅地になっていますが、江戸初期にはこの地においてはじめて清酒が造られ、わが国における清酒発祥の地ということができます。
近世酒造業において、江戸の発展と結びついた江戸積酒造業は、上方において急速に発展し、そのピークが元禄期(1688-
1703)でありました。この元禄期の江戸積銘醸地上方での中心が伊丹であり、そして伊丹で醸造された名酒は当時「丹醸」称して圧倒的な名声を博していたが、この丹醸のすぐれた技術水準を伝えている「日本山海名産図会」は次のように述べている。
伊丹は日本上酒の始めとも云うべし。これまた古来久しきことにあらず、もとは文禄慶長の頃より起て、江府に売始しは、伊丹隣郷鴻池村山中氏の人なり。-(以下略)

これは寛政11年(1799)に記述されたもので、個々の伝承については問題があるにしても、駄送り(酒樽を馬背に積み込んで陸送すること)の元祖を鴻池の山中氏に求める鴻池伝は江戸積酒造業の台頭発展を物語るものである。
同じく元禄期(1688ー1703)の文豪井原西鶴が「日本永代蔵」のなかで、「難波の津にも江戸酒つくりはじめて一門栄ゆるもあり」と述べている「一門」とは、まさにこの鴻池家の発展を想定しての叙述であったと考えられる。
またこの家伝と関連して、後寛政6年(1794)に鴻池新右衛門が大坂町奉行の下問に答えた文書のなかで、私酒造之儀は、御江戸表へ積下之元祖にて、往古は世上濁酒・片白に御座候処、私先祖澄酒を造始め、是を生諸白と申候、。。(以下略)。ここで清酒の元祖を鴻池家の生諸白=澄酒に求めている。
清酒の起源を鴻池家個人の発明に限定して考えることにはいささか問題があるが、歴史の明らかにするところ、少なくとも伊丹や池田を中心とする摂津川辺郡の周辺地域において近世初頭に銘醸地を形成していた。

伊丹市鴻池に平成12年建立された「清酒発祥の地」碑と右はその碑文。
・市内地図を検索(下のMapfanロゴをクリック)
表示される地図の左上部に3個の池がある位置です。
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清酒発祥の地・鴻池
戦国時代の天正6年(1578年)、尼子氏の家臣山中鹿之介の長男新六幸元が遠縁を頼ってここ鴻池村に住みつき、酒造りを始めました。最初は濁り酒を造っていましたが、慶長5年(1600年)に双白澄酒(清酒)の製法を初めて発見することができました。
この清酒 を江戸へ運んで販売し、次第に財を貯え、後に分家を大坂に出して、酒販売・海運業・金融業でも成功を収めました。
これが豪商・鴻池家の始まりです。ここから北西約140mにある児童公園に建つ「鴻池稲荷祠碑」には、その鴻池家の歴史が詳しく記され、清酒発祥の地・鴻池の栄光を今に伝えています。(クリック左の家計図を拡大) |
次に伊丹酒造業発展の要因として領主による保護育成があげられるます。
伊丹郷町の発展はまず領主荒木村重支配のもと16世紀末に在郷町体裁を整えましたが、それ以上に発展の要因となったのは貴族藤原家の公家である五摂家筆頭・近衛家の「天領地」として手厚い庇護と管理があったことも要因の一つです。
江戸時代に入り寛文元年(1661年)以後は近衛家の領地となり、その保護のもと酒造業が栄え、清酒醸造による「伊丹酒」の味の良さで人気を博し、その経済力は多くの文人墨客を集め東の芭蕉、西の鬼貫といわれる俳人「上島鬼貫」を生 みました。 馬一頭に四斗樽二つを振り分け運んだ単位を一駄といい、この道中は遂には百駄を超え、江戸に下る酒樽の隊商に沿道の住人、旅人は目を見張った。
その後こ大阪・淀川の河口、九条一帯が港として開発され、上方の産品を船で大江戸に運ぶ廻船・シャトル便の海路がひらかれた。樽廻船のはじまりであり、酒荷を主体とした樽廻船が馬から船へと流通の革新が行われたことに伴い、伊丹は江戸積み酒造地として急速に発展しました。 いまも猪名川の支流の駄六川は「駄六」という渡す船で酒積みしていた往時の名残をとどめています。
(大関にランクされた日本酒の番付(クリック拡大表示))
「近衛殿御家領・摂州川辺郡伊丹郷」という肩書きの伊丹酒は大いに威力を発揮し、品質のよさに高貴性を兼ね備えた伊丹酒は大江戸で最高級ランクの極上酒の名を独り占めしました。その後酒造業の中心は宮水の発見や海運などの利便性から西宮・灘へとその中心 が移っていくのですが、明治5年につくられた唱歌「汽笛一斉新橋を。。。」ではじまる鉄道唱歌(クリック)東海道編は沿線の名所や景観を歌い上げた長い歌で、その中にも伊丹が酒の町として登場するほど有名でした。 阪神間はじめ多くの市では市名を装飾してデザイン化した市章が使われる場合が多いですが、わが伊丹市の市章は市制施行のとき、近衛家の許しを得て、近衛家ゆかりの合印紋を市章としています。
(平成13年より郷町にある日本最古の酒造家屋として国指定重要文化財である岡田邸はじめ江戸時代の商家が公開されています。)
歴史ある町伊丹の探訪(伊丹市の歴史紹介山本氏のページへ)
伊丹市郷町館(みやのまえ文化の郷)
国指定重要文化財の旧岡田家住宅、県指定文化財の旧石橋家住宅、管理棟の新町家の3館で構成。パネル、映像などで酒造りや商家の暮らしを紹介[開館時間]10:00-18:00(入館は17:30まで)。入館無料
[休館日]月曜(祝日にあたるときは翌日)・年末年始
[交通]阪急・JR両伊丹駅から徒歩約5分。近くに宮ノ前地下駐車場(有料) 0727-72-5959
(右の写真をクリック。紹介ページへ ) |
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葛飾北斎の作品に伊丹酒の薦樽が描かれていた!
江戸で「丹醸」と呼ばれてうまい酒の代名詞だった伊丹酒が、世界的に名高い浮世絵師、葛飾北斎の作品にまで登場しています。
伊丹酒の薦樽が描かれていたのは、「北斎漫画」全15編のうち、文化11年(1814)に出版された初編の5ページ目で、「人物百態」の一こま。半裸の男が右腕1本で約75キロもある薦樽を高々と持ち上げている図柄で、その樽の側面に黒丸を7つ配した、伊丹酒の銘柄の一つ「七つ梅」の薦印がはっきりと描かれていました。七つ梅は、伊丹・木綿屋庄兵衛の醸造していた酒で、江戸では同じ醸造元の「男山」や別の醸造元の「剣菱」などと並び最も有名な伊丹酒の一つ。江戸川柳にも「帯解きの祝儀の酒も七つ梅」などの作品が残っています。
鴻池新田のある東大阪市から伊丹市鴻池へ視察団
鴻池新田は、豪商として名高い鴻池家が広大な新開池の跡地を開発したもので、大和川の付替工事によってできた新田の中でも最大の面積を誇ります。
東大阪市の鴻池新田を開発・経営した大阪の富豪、鴻池家のルーツを探ろうと、財団法人東大阪市文化財協会(日吉亘理事長)の一行15人が30日、本市を訪れ、鴻池家ゆかりの社寺などを視察、地区の人々と交流しました。
鴻池家は、戦国時代の武将で尼子十勇士のひとり、山中鹿之介の長男、新六(幸元)が始祖。
現在の伊 丹市鴻池で叔父の山中信直に育てられた新六は、慶長5年(1600)ごろ、清酒の醸造に成功し、それを江戸に運ぶ海運業などにも進出、後の鴻池家繁栄の基礎を築きました。
後の鴻池財閥につながる大阪・今橋の鴻池家は、新六の八男、善右衛門が初代当主で、現在の東大阪市鴻池新田の開発・経営も手がけました。
慶長5年(1600年)に初めてこの村において清酒の醸造を創め、その年邸内に稲荷祠を建てこれを祀った。以来三百有余年を経て当時の面影を偲ぶべくもないが、その境内には中井積徳(履軒)撰の稲荷社碑(伊丹市の文化財に指定)があり、碑文には「鴻池山中氏之富、以醸興也。慶長五年至今、、、」から始まる漢文で山中家の歴史が書かれています。原碑は現在破損がはげしいが原型を伝える拓本が残されており 博物館の資料等で内容が確認できる。
今回の視察は、「伊丹鴻池の歴史」(今年3月刊行)の編さんに当たっていた鴻池財産区管理会の会員らが平成9年、東大阪市の鴻池新田会所(国指定文化財)を視察したのがきっかけで実現。この日あさ、バスで鴻池地区を訪れた一行は、和島恭仁雄・市立博物館長や鴻池財産区管理会の荒西能久会長らの案内で、地区の氏神さん・鴻池神社、新六ら一族の墓のある慈眼寺、鴻池家繁栄の由来を刻んだ伊丹市指定文化財「鴻池稲荷祠碑」などを見て回りました。 日吉理事長は「日本一の富豪・鴻池家の発祥の地が伊丹だったことは大阪でもあまり知られていません。この地に来るのは初めてですが、鴻池の名の由来という黒池なども見て、ルーツはここだったのだと実感できました」と話していました。
*鴻池の歴史を知る上で私が皆さんにお勧めしたい書籍。
鴻池善右衛門「宮本又次著 吉川弘文館 人物厳書 初版昭和33年 1906円」
追記:平成11年3月刊行の「伊丹鴻池の歴史」(伊丹市鴻池財産区管理委員編纂委員会)の資料より碑文の画像取込およびスキャナー読込みをしました。参考資料として添付します。
(正しくは縦書きの画像の文字を参考にしてください。)
中井積徳(履軒)撰の稲荷社碑
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鴻池山中氏之富以醸興也慶長五年至今殆二百載而醸不廃焉其祖日幸元蓋鹿之介幸盛氏之孫云肇造隻白澄酒而大筈其伝送関以東初也歩繕次以馬駄其労邑池田伊丹一帯及灘西宮等以醸著名者亡慮数百家矣皆倣慕而起者今南海之帆陸続東郷而馳者莫不酒之載也宅後有大池日鴻池是邑所以得名而浪華諸宗人又用為舗号也始醸之歳舎後祀稲荷以鎮宅及業日興乃以為神之福祐也益慶穣祀幸元諸子分居浪華者三家厥初亦皆以醸興皆小宗也其支派又九家而僕隷起家者不与焉今夫浪華鴻池氏之富甲于天下亦能知敬宗無失禮也宝暦発未之秋大風祠傍松折圧壊祠不改作者二十載於是諸宗人相与謀日祖之徳弗忘也神之祐其可遺乎奉請新祠以綬後禄其費雄微一人承事其餘為忘祖乎請醸金命工成日善天明甲辰祠成復奮観而有加焉石表石燈翼如也乃相与約日後年祠有頽?者亦必以斯従事母使大宗濁任也又日蓋紀諸石乎今之大宗子名元長実為幸元七世孫其子元漸従余受業是歳仲秋余偶遊北山訪其居主人膓我于池上奉家牒而請焉余既甘其酒而嘉其語也遂叙而銘之 忠武震世者其角嶽々聖賢富家者其業変々天不絶善人後神宣萄降多福 不然天下多富民執如山中氏子孫縄々芳華赫々者
浪華 中井積徳撰井書
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碑文原本(画像)
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読み下し文(クリック) |
この碑文は中井積徳(履軒)は大坂の私塾懐徳堂(かいとくどう)の教授であった中井 積徳(せきとく 履軒 りけん)の撰文と筆になります。中井積徳は、竹山と号し、江戸時代中期の儒学者です。
享保十五年(一七三〇)五月十五日、大坂の学問所懐徳堂の預人兼学主であった中井甃庵の長男として生まれました。 宝暦八年(一七五八)父の死とともに懐徳堂預人の地位を引き継ぎ、天明二年(一七八二)に三宅春楼(同校の創始者三宅石庵の子)が没するとその後をうけて学主となりました。以降、文化元年(一八〇四)二月五日七十五歳で没するまで、同校の発展のために心血を注ぎました。
製作年は碑文の内容から,天明4 年(1784年)から間もないころと考えられます。碑は,中国の古代貨幣「布貨(ふか)」の形をした砂岩製で,花崗岩製の亀趺(きふ
亀形の台石)の上に立てられています。
懐徳堂とは、享保9(1724)年に鴻池家ら大阪の豪商が拠金して今橋三丁目に設け、幕府の認可をえて維新まで続いた塾で、江戸の昌平坂学問所に相当する半官半民の学問所である。大正年間に再建・再開されたが、大阪大空襲で焼亡した。
しかし、幸い資料は焼け残って、1949年大阪大学が文学部を設置する際に引き継がれた。懐徳堂は適塾と並ぶ阪大の一つのルーツといえる。懐徳堂は北浜の適塾の50m西に並んでいた(最初の懐徳堂の跡、今の地下鉄淀屋橋駅前日本生命本社前に碑がある、大正の再建懐徳堂は、本町橋の今の商工会議所のところにあった。再建懐徳堂の復元模型が阪大の文学部玄関ホールにある)
この碑文では上 記のとおり新六は(山中鹿之介)幸盛の孫という表現になっている。
しかし多くの文献では長男であったりまた孫であったとの説があぅて表記が統一されていません。
実際のところどうなのかといえは、鴻池善右衛門(宮本又次著)ではその理由を左の文中ページで詳しく述べられています。 いつの時代かに始祖が幸盛の孫にあたるように訛伝(かでん)されるようになった理由が記載されています。
したがって新六は一般的に多くの文献で記載されている通説として幸盛の長男とします。
また山中鹿之介の介は助とかかれている文献もありますが介が多く使われています。
(参照ページ-クリック拡大表示。)
伊丹が清酒発祥の地として紹介する上で、より多くの皆さんにぜひおすすめしたいページは市内で創業450周年をむかえられた小西酒造(株)のページです。
伊丹の文化に大きな貢献をされてこられた企業であり、その内容はすばらしいものがあります。とりわけ「不易流行」として清酒の歴史が詳しく解説されています。市内企業ではIT化の時代にいち早くWebサイトを立ち上げ企業紹介だけでなく日本酒文化や自社のIT情報を地域へ提供しコミュニティ伊丹のWebサイトとして地域に貢献されてきました。
ぜひ下記のFUJYAMA−NETを一読してください。
清酒に関する参照WWWサイトは、 小西酒造(株)FUJIYAMA-NETへ
最近の食文化の変化に伴い特に若い人は日本酒よりビールや健康ブームなどで焼酎が好まれ日本酒ばなれが進んでいます。
そんな中で、日本在住の米国オハイオ州出身のJohn Gauntner 氏は英語指導教員として来日、その後電気エンジニアとして鎌倉にて定住しておられます。
ご本人は大の日本酒ファンであり日本酒に関する講演会や英字新聞のコラム、また単行本の執筆など本人の日本酒への造詣の深さが伺える内容で執筆されています。
「日本人も知らない日本酒(さけ)の話」
―アメリカ人の日本酒伝道師、ジョン・ゴントナー (単行本)
飲酒は個々人の嗜好の問題ですから、あえて「日本人なら日本酒を飲め」とはいいませんが、日本酒の味覚を大切にし、これからも日本酒が見直され日本酒愛好家が増えてほしいものです。
ご自身も日本酒に関する豊富な話題の英語ホームページを通じてまたメールマガジンも発行されて精力的に日本酒の話題を提供されています。
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