NHK歴史大河ドラマ「八重の桜」‐川崎尚之助と伊丹市
  

  平成25年のNHKの歴史大河ドラマは「八重の桜」です。
 新島八重は同志社創設者の新島譲の妻ですが、八重の最初の夫は会津藩士の川崎尚之助です。幕末の動乱期に京都守護職を命ぜられていた会津藩はやがて激動の時代に翻弄されます。

 物語は幕末の会津藩が舞台で、戊辰戦争において鳥羽伏見の戦いに敗れ会津藩は賊軍となり追い詰められてやがて会津城の決戦や白虎隊の悲劇へと続きます。

 その会津藩の砲術師範役山本権八の娘が八重であります。男勝りの八重は戦死した弟の武装をまとってスペンサー銃を携えて官軍と果敢に銃撃戦を戦い抜きます。
 
 なんと主人公の新島(山本)八重の最初の夫、川崎尚之助は但馬・出石藩(兵庫県豊岡市)出身の蘭学者です。 
八重は戊辰戦争後尚之助と生き別れとなり兄山本覚馬をたよって京都に身を寄せます。 
 

川崎尚之助と伊丹市
 実は川崎尚之助の末裔にあたる川崎 修氏は伊丹市民であり、ご本人は現在府中市に単身赴任されていますが、以前伊丹市内でボーイスカウトの指導者をされていたことがあり、いろいろとご縁があって今回知った次第です。
 
 すでにドラマが始まった1月から出石藩のあった豊岡市(旧出石町)では川崎尚之助にちなんだ様々なイベントがおこなわれておりご本人も講演活動など活発に活動されています。
 この「川崎尚之助」は、とても謎の多い人物ですが、会津の資料に“但馬国出石藩の藩医の子”と書かれています。時代がペリー率いる黒船があらわれ開国を迫られる騒然とした時代で、会津の日新館に蘭学の師範として関係し、八重との出会いがありました。

 また、最近になって、歴史研究家の調査の結果、出石の願成寺(がんじょうじ)で、尚之助を弔ったのではないかといわれています。

 川崎氏もNHKのドラマの機会に川崎尚之助にかかわる様々な史実に基づく調査をされこれまで知られていなかったことなど新たな発見をされています。

 お忙しい中3月23日には伊丹市内でNPO法人の創立イベントで講演していただきました。 
 
パワーポイントを使ってご自身が作成された資料をもとに、幕末の激動の時代を生きた川崎尚之助にまつわるさまざまエピソードなど尚之助の知られざる様々な史実を紹介されて大好評でした。 
引き続き6月にも伊丹市内の「きららホール」で講演いただきました。
 (伊丹大使の元NHK天気予報者半井小絵さんと。)


 川崎氏は今年は川崎尚之助に関する講演などでお忙しい1年になりそうです。
 ご本人の話では今回のドラマが出るまでは全く尚之助との関係を知らなかったとのことですが、「私の背中に尚之助がいる!?」と調査する中で、何かこれまで知らなかった多くの方との関わりがわかり謎めいた因縁を感じられているとのことです。

  わたしも尚之助に関心をもった次第で5月に
出石を訪れました
  豊岡市役所出石支所前イベント広場では東北復興応援イベントそばまつりとして、
  「会津のかおり」そばを材料にした「八重と尚之助の夫婦そば」を地元の皿そば協同
  組合が主催して2日間にわたり開催。 また川崎家の菩提寺・願成寺の山門向かい
  には今年1月に供養石碑も建てられています。
   伊丹からは中国縦貫・舞鶴道・和田山経由130km約2時間半のドライブでしたが
  渋滞もなく田植準備の田園風景が続く中城下町出石町に到着。
   中心地の庁舎前の大手前駐車場も平日ですいており市内散策をしました。名物の
  皿そば屋さんは50軒ほどあるとのことですが、いたるところで見かけます。
   それでも落ち着いた街の佇をのんびりと散策を楽しめる街です。
  
 出石明治館(元郡役所)  大手前駐車場の案内版  出石町のシンボル辰鼓楼
   
 川崎尚之助生家跡 出石城跡   出石明治館(特別展開催)
 
 川崎尚之助供養石碑   観光協会発行パンフ(表)  観光協会発行パンフ(裏)
 ・(参考)川崎尚之助の故郷を旅する  豊岡市出石町のサイト
  
   <年表>
  1857年(安政5年)   洋学者の尚之助は山本家に寄宿
  1865年(慶応元年)   八重(21歳)と尚之助(29歳)が結婚

  1868年(慶応4年)   戊辰戦争勃発 戊辰戦争で会津藩が敗れた後、八重と離婚

  1870年(明治3年)   尚之助は、会津藩の集団移住先の斗南藩(青森
               県むつ市)で飢餓に苦しむ農民を救うため、藩の許
               可を得ずに大豆との交換条件で米を先物取引した
               が、交換手形を回収できず損害を出した。
               取引を主導した米座省三が逃亡する中、尚之助は
               「藩は無関係」として自ら法の裁きを受けることにし
               た。
  1871年(明治4年)   の旧北会津郡役所「各府県出稼戸籍簿」米沢管内
               の名簿に、藩士の石高や役職などを記した「御近習
               分限帳」の中に内藤新一郎方出稼川崎尚之助妻の
               記述があった。(右の図)
               一時的にせよ、八重が「川崎尚之助の妻」として米
               沢に居たと思われる。
  1872年(明治5年)   8月 尚之助は東京で保護観察下に置かれた。
               浅草鳥越に居住裁判が終わらぬまま3年後東京
               医学校病院で尚之助は肺炎で亡くなった。
              
  1875年(明治8年)  3月20日  享年39歳。

     http://ameblo.jp/hirokihasegawa/entry-11315371937.html より引用。

<追 記>
   八重の桜の番組解説や川崎尚之助に詳しい解説がある同志社女子大学のサイト
   に「川崎尚之助の復権をめざして 」 吉海 直人氏 (日本語日本文学科 教授)
   が寄稿されています。非常にわかりやすく解説されています。
    http://www.dwc.doshisha.ac.jp/yae/column/130827.html