伊丹の話題(2) -NHK大河ドラマ「功名が辻」と伊丹−
 
   NHK大河ドラマ『功名が辻』について

 平成18年1月からはじまるNHK大河ドラマ「功名が辻」は司馬遼太郎原作の物語がとりあげられております。内容は戦国武将で土佐藩主に上り詰めた山内一豊をテーマとして一豊と内助で支えた「千代」の物語。

発表されている主な出演者
   山内一豊    上川隆也
   千代     仲間由紀恵
   織田信長     舘ひろし
   市         大地真央
   明智光秀    坂東三津五郎
   ガラシャ(玉)  長谷川京子
   六平太      香川照之
   竹中半兵衛   筒井道隆
   石田三成     中村橋之助
   豊臣秀吉     柄本明
   徳川家康     西田敏行


 NHKの大河ドラマは毎年歴史上の人物を取り上げ年間を通じてシリーズで放映されるため全国的に視聴率も高く対象となる地域の知名度を高め、放映されるゆかりの場所は新たな名所となったり、訪れる観光客が増えてドラマにちなんだ土産物まで出来る時もあります。
 山内一豊が豊臣秀吉に仕えていた時に、夫婦そろって住んでいた長浜城下。一豊公が一番最初に城主となったのが長浜城のある滋賀県長浜市。そして何より、今回のドラマの主人公「千代」が生まれ育ったのが近江町。その近江町のキャッチコピーは「母の郷」。まさしく「千代」の郷です! すでに長浜市では山内一豊にちなんだ観光案内ガイドブックが出来ています。
 また掛川城のある掛川市や高知市でも関連イベントが予定されています。 
 掛川城は1994年、全国初の木造天守閣として復元された3層4階建ての城。戦国時代に今川氏の家臣・朝比奈泰熈[あさひなやすひろ]によって築城され、天守閣は山内一豊[やまのうちかずとよ]の時代に築かれました。
 また関ヶ原戦の功績により徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊は、慶長6年(1601年)大高坂山に新城の築城工事を始め慶長8年に城の大部分が完成、入城しました。

 
また京都の大通院は天正14年(1586)、一柳直末が南家玄興を開山として創建。山内一豊の子、湘南宗化が二世に入寺して以降、山内家の菩提寺となった。境内には、山内一豊とその妻、千代の御廟があり、内部には夫妻の卵塔の墓石があり、肖像画「山内一豊画像」、「妻千代画像」も祀られている。
 番組第1回がはじまる1月8日には京都駅前でさっそく
 
長浜・掛川・高知が連携したイベントが予定されています。
  「功名が辻ゆかりの地合同出陣式」
 
1.趣旨
 
大河ドラマ「功名が辻」の放送日1月8日にあわせて、大河ドラマゆかりの地である長浜・掛川・高知が連携して、イベントの成功を祈念するために一豊公・千代様の菩提寺である大通院に関係者が参拝するとともに、JR京都駅前で出陣式を行い、イベント開始を高らかに宣言し、3地域のイベントの広報を行う。

2.日時 平成18年1月8日(日)  11:00  大通院墓参
                      13:00  出陣式(京都駅前)
 
 
 また
江戸東京博物館では
  
 大河ドラマ『功名が辻』特別展 『山内一豊とその妻
     が予定されています。
   
  
江戸東京博物館

期間: 平成17年 12月23日(金・祝)〜平成18年2月5日(日)
会場: 江戸東京博物館 1階 企画展示室
開館時間: 9時30分〜17時30分 (木曜・金曜は20時まで)
*1月2日(月)、1月3日(火)は午前11時〜
130-0015
東京都墨田区横網1-4-1 東京都江戸東京博物館(TEL 03-3626-9974)


「山内一豊肖像画」
尾張国(現・愛知県)に父・盛豊の第四子として生まれ、槍働き一筋で、主を代えながらも戦国時代を生き抜き、大功を成した山内一豊(1545−1605)。
父の戦死により若くして放浪の身となった一豊は、豊臣秀吉にその槍使いを認められ、秀吉の家臣として織田信長の浅井・朝倉攻めに参加。朝倉の将・三段崎勘右衛門を討ち取るなど大きな働きを見せました。このころ生涯の伴侶である夫人(見性院)と出会ったといわれています。
信長没後は、豊臣秀吉の天下統一への道とともに、時代の流れに乗るように出世を重ね、やがて、徳川家康に関ヶ原の合戦での働きを評価され、掛川城主から土佐藩主となり土佐藩の礎を築きました。一豊がここまでの地位を築くことができたのも夫人の存在が大きいと言われており、「内助の功」として数々の美談を残しています。
土佐藩主・山内一豊が、信長、秀吉、家康と主君を変えながらも戦国の世を出世していった陰には、賢妻・千代の知恵と卓抜した政治感覚があった。−博物館紹介ページより。


伊丹ゆかりの戦国武将荒木村重と山内一豊

  今年のNHKの大河ドラマ「功名が辻」と伊丹とは何か”ゆかり”があるの?

 といえば今回の物語がとりあげられている戦国時代の話には当然織田信長の天下統一や桶狭間、姉川の合戦や残忍な比叡山の焼討ち、小谷城、三木城、有岡城の城攻めが考えられます。
 そこでJR伊丹駅前の有岡城の城主であった荒木村重との接点があります。下の山内一豊公の年譜でも記載されていますが、天正6年に秀吉に従い有岡城攻めに出陣しています。

 このあたりの史実が今回のドラマではどのように紹介されるのか非常に関心があり、また興味があるところです。ともかく今年の大河ドラマは楽しめそうです。

 
荒木村重についてはこの伊丹再発見のサイトで紹介(クリック)しておりますが、一般的に知られているのは「本能寺の変」で知られている明智光秀とともに織田信長に謀反を起こした事で、城攻めに遭った悲劇の武将であり、有岡城陥落の時に、一族や家来を残したままで自分だけ毛利方に逃げ去った卑怯者、「謎の武将」と言われています。
 有岡城は
当時のポルトガル宣教師、ルイス・フロイスに「甚だ壮大にして見事なる城」と讃えられたほど立派な城で、周辺の地形を利用して町全体を取り囲んで強固な守りをしたいわゆる「惣構え」の城としては安土桃山城より以前であり、日本最古のものであると言われています。
 
現在は石垣の一部だけが残り天守閣もなく往時を偲ぶことはできませんが、史跡としてJR伊丹駅前西側にその城跡が残っています。
 将来もし大河ドラマで、司馬遼太郎氏の「播磨灘物語」がとりあげられれば、さらに有岡城が登場して、今以上に盛り上がるのですが、今回それでも、大河ドラマを契機に遠く戦国時代に思いを馳せて多くの人が伊丹の有岡城跡を訪れていただければ嬉しい限りです。

豊公の年譜        愛知県一宮市木曽川町商工会のページより引用。
1545年(天文14) 尾張黒田、黒田城現在の一宮市木曽川町に誕生する
1557年(弘治3) 黒田城で夜討に遭い兄、十郎(16歳)が死亡
1558年(永禄元年) 岩倉城落城時父・盛豊公が死亡
【盛豊公、兄、十郎は仲良く法蓮寺に祭られている】
1560年(永禄3) 元服し伊(猪)右衛門一豊と名のる。
桶狭間の戦い
1567年(永禄10) この頃から元亀にかけて秀吉に仕える
この頃千代と結婚
1570年(元亀元年) 朝倉攻めに参加し金ケ崎城の戦いで矢が右頬から貫通する大怪我をする
1573年(天正元) 朝倉の将、三段崎勘右衛門を討ち取る
近江唐国(現在の滋賀県虎姫町)に400石を与えられる
1575年(天正3) 秀吉に従い長篠の戦いに参加する
1576年(天正4) 竹生島神社に金を寄進する
1577年(天正5) 秀吉に従い播磨出陣に参加する
秀吉に従い上月城戦に参加する
播磨有年に700石を与えられる。のちに200石加増される。
1578年(天正6) 秀吉に従い三木城戦に参加する
秀吉に従い上月城救援に参加する
秀吉に従い荒木村重攻めに参加する
1581年(天正9) 馬揃が聚楽第で開催。この時あの伝説がうまれた
秀吉に従い鳥取城戦に参加する
秀吉に従い岩屋城戦に参加する
1582年(天正10) 諸将とともに備中高松城外に堤を築く
秀吉に従い山崎の戦いに参加する(本能寺の変)
播磨印南郡500石を加増される
1583年(天正11) 秀吉に従い亀山城戦に参加する
秀吉より美濃出陣を命じられる
秀吉に従い賤ヶ岳戦に参加する
河内交野361石加増される
1584年(天正12) 秀吉に従い小牧の戦いに参加する
近江長浜に5000石を与えられる
弟康豊、加賀大聖寺より長浜に移る
1585年(天正13) 秀吉に従い紀州征伐に参加する
若狭高浜に19800石を与えられる
秀吉に従い越中戦に参加する
近江長浜に2万石を与えられる。秀次の老臣となる
長浜大地震で与祢姫が死し、夫人は禅宗に帰依する
1586年(天正14) 紙衣を着し、年頭の儀礼を行う。馭初式を行う
生母梶原氏が没する
1587年(天正15) 正五位下対馬守に任ぜられる。聚楽第普請に加わる
1588年(天正16) 後陽成天皇が聚楽代へ行幸する。一豊は諸大名とともに、これに供奉する
1589年(天正17) 長浜城の城門を建立する
1590年(天正18) 秀次に従い、伊豆山中城を攻める
秀吉に佐竹義重妻子の供を命ぜられる
秀吉を大井川の河畔に饗応する
遠江掛川に5万石を与えられる
遠江周智郡11980石の代官を命ぜられる
1591年(天正19) 朝鮮出兵の為の軍艦建造を命じられる
中村一氏と大井川治水工事を行う
1592年(文禄元) 秀次に属し京都を守る
飛鳥井雅継に蹴鞠の伝授をうける
山内忠義(二代藩主)生まれる
1593年(文禄2) 聚楽第に赴く
掛川領内にて秀次を饗応する
1594年(文禄3) 伏見城の普請に加わる
秀吉の忌諱にふれ、朝鮮出兵を命ぜられるも、のちに許される
伊勢鈴鹿郡内1000石を加増される
掛川領内の検地が終わる
1595年(文禄4) 遠江の秀次闕所8000石を加増される
周智郡一宮筋の蔵入地2964石の代官を命ぜられる
1598年(慶長3) 秀吉の遺品を受ける
安見一之より砲術の伝授を受ける
1599年(慶長4) 豊臣秀吉の葬儀に参列する
1600年(慶長5) 家康に従い、豊国神社に参拝する
東下中の家康を小夜中山に饗応する
会津征討のため、掛川を発つ
夫人の書状を受ける
小山軍議で掛川城明け渡しを建議する
岐阜城攻撃に加わり美濃西牧野に着陣する
垂井付近に陣取り南宮山の敵に備える
土佐一国の領主となる
井伊直政の家臣鈴木平兵衛らが浦戸城受け取りの為に土佐へ入る
浦戸一揆。浦戸城の接収が終わる
1601年(慶長6) 甲浦に上陸、浦戸城へ入城する
康豊らを伴い、土佐国内を巡見する
康豊を中村に封じる
宿毛、窪川、佐川、本山、安芸の要地に重臣を置く
定書を発す
前岩倉城主織田信安が来国する
毛利吉成父子を預かる
大高坂築城鍬初式おこなう
1602年(慶長7) 上京する
1603年(慶長8) 従四位下土佐守に命ぜられる
浦戸より大高坂へ移り、この地を河中(高知)と改める
滝山一揆起こる
1604年(慶長9) 江戸へ参勤。江戸城普請課役を負担する
1605年(慶長10) 忠義と家康養女・阿姫との婚約成立する
忠義が従五位下対馬守に命ぜられる
9月20日没する。61歳。真如寺山(筆山)に葬られる

追記:H18.1.4
 
 「功名が辻完全ガイドブック」東京ニュース通信社発行)番組解説本を書店で見つけました。 ストーリー解説ページには有岡城攻めの物語もありました。

 伊丹市の有岡城が第19回目「天魔信長」で 5月14日に放送されます。

 その紹介記事には、秀吉と一豊が謀反の疑いをかけられた荒木村重を説得するため有岡城へ赴くが目的を果たせず、その後説得に入った黒田官兵衛の帰りをまたずに信長は難攻不落の有岡城を包囲攻撃する。との紹介記事があります。
 その前回の5月7日放送の第18回のタイトルは「秀吉謀反」であり、荒木村重とは対象的に政略に長けた秀吉は、信長の謀反の疑いをうまくかわす才能の持ち主ですが、竹中半兵衛や三木城など兵庫県と縁が深い物語の展開が続く5月の連休後、19回、20回は伊丹市民にとっては必見の内容です。
 何はともあれ、波乱万丈の戦国時代で下克上の横行する中で武将間の激しい戦が続き、家臣との人間関係や葛藤、そして一豊の出陣毎に影で支え、夫のために大金で名馬買う賢妻ぶり。しかし、いつも安否を気遣う千代。戦が終り、
「千代、命拾ったぞ。」「お命の持ち帰りこそ、功名の種にございます。」というセリフ。さすが山内一豊の妻。すごいですね。解説本だけでもなかなか面白い内容でした。