| 伊丹の話題(2)ー長尾村との合併物語- |
| ー長尾村との合併- 伊丹市は明治22年、川辺郡伊丹町が誕生。 昭和15年には稲野村と合併して県内で7番目、全国で174番目の市、となりました。 伊丹町から1940年に神津村が編入され、そして昭和30年(1955)4月に市北部の長尾村の一部が編入されて、現在の伊丹市の市域が確定されたものであります。 ![]() 2005年は市制施行65周年でもありまた奇しくも長尾村編入50周年にあたります。 伊丹市の地図をみると北西部だけが張り出し両側が宝塚市域となっています。 その理由は合併により川辺郡長尾村が南北に分かれてそれぞれ宝塚市、伊丹市の両市に編入されたからです。 川辺郡といえば今では猪名川町がその地名に名残をとどめています。 いま阪神北県民局として兵庫県の行政区域も阪神間を南北に分けて尼崎、西宮、芦屋と伊丹、宝塚、猪名川町、三田となっています。 また数年前は3市1町の広域行政も検討されましたがそれぞれに個性がある市が連携をしていくのはやはり難しいようです。 歴史に「もし」はないですですが、もし長尾村全部の地区が伊丹市に編入されていたら、左の地図のように伊丹市はなっており、地勢上その後の両市の発展は大きく変わっていたことでしょう。 私が育った伊丹市北部の鴻池などの長尾村児童は昭和30年4月まで長尾小学校そして合併にともない一時的に今の「きららホール」の近くにあった長尾寮講堂での仮設校舎が教室となり、そして翌年新 たに建設された今の天神川小学校への移転を経験しています。私も当時のことを思い出せば鴻池から荒牧にある大阪芸術短期大学をすぎて天神川を越えて南側にあった長尾小学校(旧長尾村役場が近くにあった所。)まで集団登校で元気に通い、また天神川の土手道などを寄り道しながら1時間以上もかかって帰宅していたことを思い出します 「長尾寮」といっても今では、たぶん60代以上の方でないとよくご存知ないかも知れません。 今の北野地区には門柱跡やバラ公園近くの天神川下の鉄道トンネル跡などが往時の影を残していますが、この地は戦前は旧大阪陸軍獣医資材支廠(しょう)長尾分廠の跡地であり、軍馬のための医薬品、衛生材料の製造工場などがあり鴻池、荒牧、荻野にまたがる10万坪に及ぶ広大な敷地であり中山寺駅から引き込み線が敷かれていました。(「地域研究いたみ第25号」平成8年伊丹市博物館、で紹介されています。) また平成11年度には長尾分廠門柱跡の保存整備が行なわれました。 ![]() 戦後になって昭和21年5月1日に土地と建物は引揚者の応急援護施設・長尾寮となり兵庫県が同胞援護会兵庫県支部に経営を委託して発足しています。 戦後外地からの引揚者の皆さんや多くの関係者が来られ長尾寮としてこれらの施設を住居施設として使われコミュニティが形成されるとともに必要な福祉施設としてもこれらの施設が活用されました。 その管理は昭和27年10月から長尾村に移譲しますが昭和30年4月からは合併により伊丹市の管理となりました。昭和32年4月に地区内の寮の一つである若竹荘が焼失しその跡に平和荘が建てられました。そして昭和39年2月より民間への払い下げがおこなわれました。 いま平 成の大合併ともいわれ、地方分権が進みより効率的な行政運営をめざして全国的に市町村の合併が進められていますが、合併するにはやはり対象となる地域住民が共有する住民感情や諸々の利害がからんでお互いが合意に至るまでには今でも簡単には解決しないのが現状です。当時の長尾村の合併問題については、昭和62年3月9日付読売新聞の「ふるさと春秋」ー阪神間の歴史散歩ー(左の記事クリック拡大)でも紹介されています。 長尾村の合併問題は決して順風満帆でなく住民同士のトラブルなど紆余曲折の経過を経て今の伊丹市となりました。長尾村編入50周年を迎えて、その当時の住民が持っていた郷土への情熱に思いを馳せて50年前の長尾村の合併についてその経緯をぜひ知っておきたいものです。 伊丹市の沿革 昭和15年11月 伊丹市制施行(10日)。 市役所を伊丹字中ノ町(現中央3丁目)に置く。 12月 第1回市議会召集。 昭和22年 3月 神津村編入。人口53,296人、面積21.75平方キロメートル。 4月 東・南・西・北の4新制中学校設立。 昭和24年 1月 市営バス運行開始。 昭和30年 4月 長尾村の一部編入。人口68,982人、面積25.09平方キロメートル (*参考:総務省発行の全国市町村要覧などでは市面積は24.95Kuの実測値になっている。) 長尾村と伊丹市合併の沿革 ![]() 昭和23年9月13日 長尾村の荒牧,鴻池など南部八地区の代表者が、村長(今里浅太郎)へ「すみやかに伊丹市への合併を促進されたい。」という要望書を提出。 理由ー新制中学校の建設の必要に迫られ、その膨大な経費が村民を苦しめることを懸念する。また将来の都市基盤の整備や公共施設の整備を考えれば伊丹市との合併が最善であるとの趣旨が要望されている。 昭和23年12月17日 川辺郡川西町(現在の川西市)と小浜村(同、宝塚市)から北摂都市建設を目的とする合併の申し入れがあった。 昭和24年1月19日 両町村から北摂都市建設構想の説明があり、同月31日には長尾小学校で伊丹市、川西町、小浜村による合併に関する説明会が開かれた。会場はヤジと怒号が飛び交う始末でやむなく散会となった。 昭和24年2月7日 臨時村議会が開かれ、記名投票で伊丹市との合併案が可決された。 しかし、伊丹との合併に反対する北部住民はこの議決は民意を踏み躙るものとして,2月11日から2回にわたって議会解散請求の選挙管理委員会に提出。二回目の請求については5月に賛否投票が行なわれた結果、小差で議会解散が決定された。村議会の解散で合併話は白紙に戻された。 昭和24年6月 今里浅太郎村長の辞職。 そして中道派として推された中山寺管長池田宝澄(いけだえいちょう)の村長就任(同年8月)、 昭和26年4月 長尾村議会議員改選。 昭和26年8月 池田村長の再選。 昭和30年1月 昭和26年3月に小浜村が宝塚町となり、29年4月には武庫郡良元村を合併して宝塚市となり、改めて単独で長尾村に合併を申し入れてきた。これが原因でまた合併問題の南北対立を激化させた。 昭和30年2月 長尾小学校で開かれた議員協議会はまたもや殺気立った雰囲気となり、いたたまれなくなった村長と村議会議長が役場へ逃げ出して流会となった。 最終的には伊丹市合併派が兵庫県知事に泣きつき県が窮余の策として持ち出した分村合併を村民がのむ形で長年の騒動に決着がついた。 昭和30年3月10日 長尾村全域がいったん宝塚市に合併。ひとまず宝塚市議選挙の投票をすませたあと22日後の4月1日に同市議会の境界変更の議決を基に南部六地区が改めて伊丹市に合併された。 (合併の結果) 長尾村の内南部の荒牧,桑田,西池,鴻池,,大野,,荻野の6地区が伊丹市に編入された。とくに大野地区は水利等の関係で地区内北部に位置する耕作者とは調整がつかず、最終的には山本地区として大野地区の一部は宝塚市に編入することとなった。 長尾町役場職員については両市に編入される地域の人口比率によって引き継がれることになったが、ほぼ職員の希望に沿って引き継がれた。長尾村は3月10日に宝塚市に合併、そして続いて西谷村は3月14日に合併。現在の市域25.09Kuが決まった。 一説によると、当時の合併に関する紛糾はやはり農業を営む上で水利は大切であります。北高南低の地形上南部の各地区は川下になり川上の住民に何かと言われてきたことが心にわだかまりがあったこと、とくに大野地区では井戸を掘る覚悟で伊丹側についたといわれています。また北部は植木の産地であり植木を出荷するのに少女歌劇の宝塚のブランド価値が高いし、阪急電車で楽に宝塚や大阪に行ける利便性があり伊丹との合併を切実に思う必要がなかったとも言われています。 いずれにせよ伊丹市の面積が合併により長尾村全面積12.72Ku増えていれば良かったのかそれとも今の状態で行政サービス規模としては効率的には良かったのか評価はできませんが、清酒の歴史関係の文献では鴻池を間違って宝塚市と書いてある書籍もあるようにたしかに合併の経緯から一時的に宝塚市に編入されていました.。 しかし鴻池には山中鹿之介末裔伝説の鴻池家がありそして、「清酒発祥の地−伊丹」のイメージから伊丹市がふさわしいものであります。 付記 当時の長尾村村会議員であった(故)松原久一郎氏が昭和45年(1970)10月7日に、ご本人自身がこの合併問題にかかわられたことから回顧録を書かれています。 この回顧録の公開につきまして承諾を得ましたので、ここに紹介します。 (A5サイズ縦書き28ページ。スキャナー取り込みでPDFファイルにしています。下の行をクリックすればPDFファイルが閲読できます。) ![]() 追記: 宝塚市長尾地区まちづくり協議会文化・健康部会は平成17年3月12日午後から宝塚市東公民館でこのホームーページがきっかけとなって部会員の方から講演依頼がありました。 平成17年度は宝塚市の市制施行60周年記念事業として様々なイベントが予定されており、その中に「長尾の歴史講座ー50年前の長尾村分村合併の話を聞く」と題した講座が予定され協力しました。 他に合併当時の思い出などなにか話題がありましたら私までメールください。 *3月12日当日の講演時の配布資料 ![]() 追記: 長尾村は全国一の植木産地(山本は日本の植木3大産地)として知られておりました。特に伝統的に接木技術を生かした果樹、ぼたんなど苗木作りが盛んでこの日本から米国ワシントンに贈られて桜台木もこの地で生産されました。 伊丹市東野は今でも園芸農家が多く独特の接木技術により1本の木から3色の桃花が咲く「南京桃」は伊丹市の特産になっております。 右の冊子は昭和26年10月に地元の植木組合が発行した「長尾の園芸」(冊子)を伊丹市東野の久保氏からコピーさせていただきました。当時の植木産業について貴重な記録となる内容です。PDFファイルに変換しています。(A4版,47ページ) |