| 伊丹再発見シリーズ -柿衞文庫と台柿- 宮ノ前文化の郷にある、柿衞文庫といえば東大図書館の「洒竹・竹冷(しゃちく・ちくれい)文庫(クリック)」、天理大学図書館の「綿屋文庫(クリック)」と並ぶ日本3大俳諧コレクションの1つと称され、柿衞翁岡田利兵衞氏が寄贈された俳書を中心とする書籍、軸物や短冊など多くの収蔵品があります。 柿衞文庫と同じ建物内で伊丹市立美術館が併設されており、その日本庭園(枯山水)もすばらしく、庭園内には、毎年みごとに実をつける柿木が庭園の東西方向に3本あります。 この柿木3本のうち真ん中にある1本がこの柿衞文庫の名前の由来となった台柿(だがき)で他所ではあまりみかけない珍しい品種でありその種類は菊平 (きくひら)といわれています。この渋柿は大きな赤い実のへたの下あたりがまるで台(うてな)のように盛り上がっているのが特徴です。もちろん渋柿ですから渋抜き処理をするか、実が熟すまで食べられません。そして柿が熟すとまるでゼリーのように甘くおいしいものです。 この柿が「頼山陽遺愛の柿」といわれています。 学者として有名であった幕末の儒学者頼山陽、彼は教科書にも登場しますが日本初の正統的歴史書である「日本外史」の著者で有名です。「日本外史」は源平より徳川までの 盛衰興亡を流暢な漢文体で著し、その情熱的な文章は幕末勤王思想に大きな影響を与えたといわれています。 文政12年(1829)10月22日、彼が広島に帰る母を伊丹まで送ってきた際に、他の一流の文人や画家を多数引き連れて来伊したそうです。翌23日に剣菱の醸造元坂本桐陰の家で酒宴が催され、宴たけなわの際にお口直しのデザートとして供されたのが今も残る台柿(今の木は2代目)であります。 ![]() 当時は冷蔵庫もなくおそらく酔い醒ましにこのような熟し柿はデザートとして口当たりもよく、冷たくてシャーベットのように美味であったことでしょう。 伝えられるところによると頼山陽は、この柿を絶賛し、もう一つと所望したそうですが、岡田家に一本あるだけの柿なのであきらめてほしいと言われ、その心境を歌に残しました。 右の色紙は麗画(「三百年生きて勇まし山陽柿-柿衞」) 以来岡田家の当主は柿にちなんだ雅号を持ちますが、第二十二代目の岡田利兵衞は「柿衞」と称し、その文庫の名前としました。植物学の牧野富太郎博士によると、もとの岡田邸内の柿の木は樹齢300年とのことでした。 柿衞文庫の衞(もり)という字ですが、よく書き間違いをします。よく使う「衛」ではありません。「衞」は漢字コードで決められているのでパソコンでも正しく変換ができます。ちなみに「柿衞」とは「柿の木を守る」という意味です。 柿衞翁はこの柿がたわわに実る時節には「鑑柿会」(かんしかい)として柿を愛でる茶席を設けて、愛蔵の名品の数々で参会の人々をもてなしたといわれています。 柿衞文庫の名称の由来は以上のとおりですが、参考までに柿衞文庫のホーム-ページでは以下の説明があります。
頼山陽ゆかりの広島県竹原市にある頼山陽居室跡には昭和10年(19 35),当地に山陽記念館が建設されましたが,原爆によって大破しました。戦後建物は修復され,社会教育施設などに利用されていましたが,老朽化が著しく危険な状態になったため,平成7年(1995)に頼山陽史跡資料館として再建されました。平成15年には「鑑柿会」の茶席と「台柿を愛でる展」が開催された際にも竹原頼山陽顕彰会と山陽吟詠会の皆さん43名が柿衞文庫を訪れられ、詩吟や山陽踊りなどを通じて柿衞文庫友の会の皆さんと交流されました。 今年(2005年)は伊丹市制施行65周年にあたり、11月23日に「柿観の茶会」が予定されています。柿衞文庫に由来する由緒ある台柿(菊平種)の柿木は現在園内には1本しかありません。多くの市民がこの珍しい柿衞文庫の台柿について認識をふかめると共に、末永く守り育て郷土の誇りにしていきたいものです。 平成17年に由緒ある台柿を未来に継承していくため、3世となる台柿を育てていく台柿継承プロジェクトが地元伊丹市東野地区の農会の協力を得てスタートしました。 庭内にある柿の枝を補木にして接木し育苗して増やしていくのですが、かっては米国ワシントンの桜の台木作りもこの地で行われました。伝統的な接木技術を生かしてこれまでに南京桃や盆栽梅などを育ててきた土地柄だけにきっと成功することでしょう。 平成20年2月報道記事より。クリック拡大表示。(読売、朝日、毎日各紙より引用。) ![]() |