伊丹再発見シリーズ -いたみの名物(6)-
  
 清酒発祥の地にちなんで清酒「鴻池郷」が地元鴻池の田中酒店で販売されています。
 製造元は地元の伊丹老松酒造株式会社です
 
伊丹とゆかりの深い戦国武将といえば有岡城主の荒木村重ともう一人、悲運の戦国武将の山中鹿之介です。
 "我をして七難八苦に合わしめ給え。”と三日月に祈った伝説で有名です。
 その鹿之介の長男新六(幸元)が元亀元年(1570)に出生したが、幼時より故あって大叔父山中信直に養われ摂津の国鴻池村で成長し、鴻池家の始祖となる。
 鴻池家といえば、江戸時代の豪商。近代では、日本生命や三和銀行(現UFJ銀行)を築いた一族ですが、この発祥の地が伊丹であり、その財は日本で始めて作った清酒でした。。山中鹿之介の子孫である初代新六が慶長5年(1600年)に清酒(透明な酒)作りに成功したと書かれています。
 この清酒で築いた財によって、鴻池家の子孫は大阪で海運や金融を営み、巨大に成長してゆくのです。 伊丹市内鴻池には鴻池家敷地に作られた稲荷社と祠碑です。祠碑は天明4年(1784年)に建替えられたときに、鴻池家の由来を刻んだものです。 『日本山海名産図会』に「伊丹は日本上酒の始めとも言うべし」とあるとおり,伊丹は池田と並んで江戸積み酒造業をもっとも早く展開した町です。造り酒屋は元禄期(1688~1704)には36軒,酒造高1万6,400石でしたが,正徳5年(1715)には72軒,酒造高6万石に増加しました。井原西鶴は伊丹の酒造家のことを「軒を並べて今の繁昌」(『織留』)と記しています。
  清酒の発祥地と鴻池家(クリック)

 

         
 

      
  *お求めは 
伊丹市鴻池 田中酒店 
       
 電話072-781-1729
     場所(地図)は  をクリックすれば表示します。

 
山中鹿之介は
、天文14年(1545)8月15日雲州富田月山城(現出雲市広瀬町)の麓に生まれました。十六歳の時、尼子義久に従って伯耆に入り山名氏と尾高城で戦う。山名の驍将菊地音八正茂を討ちとって一躍その勇名をあげる。
、初陣に立つ夜、戦功に恵まれるように「我をして七難八苦に合わしめ給え」と月に向かい祈ったと言われています。
 鹿之介が本当にそのように言ったかどうかは、わかりませんが、戦国時代に三日月には独特の霊力が宿るという信仰が古くからあり、尼子家の再興に力を尽くすも果たせなかった山中鹿之介が三日月に向かって祈ったという話は有名です。
 主君尼子氏に仕えて数々の武勲をたて、英雄豪傑と称せられたが、幾たびかの戦いも常に利あらず、尼子家存亡の危機にさらされたが、みずから苦難と取り組み、尼子家再興の機を伺っていましたた。
 たまたま天正5年(1577)織田信長は秀吉を将として、播州上月城を包囲させ敵を降させたので、秀吉の軍に参加していた尼子勝久をこの城の城将に任じ、鹿之介以下尼子勢を以てこれを固めさせた。
 翌6年の3月、毛利輝元は備中松山城に出陣し、小早川隆景・吉川元春に命じて上月城を包囲させた。尼子勝久と重臣・山中鹿之介らは上月城(兵庫県上月町)に篭城したが孤立無援の尼子勢は再興の夢も破れ、7月3日ついに落城し尼子勝久は自害した。鹿之介は捕らえられて、毛利輝元が居る備中松山へ護送される途中、7月10日阿部の渡し場で討ち取られた。時に34歳であった。
 山中鹿之介の長男新六幸元が落ち延びて伊丹市域の鴻池村に至り,そこで清酒の醸造法を発見し,江戸に送って巨利を得たといわれます。(「鴻池稲荷祠碑」碑文)。
 


(鴻池家に関するお勧めの参考書籍)
人物叢書 鴻池善右衛門(こうのいけぜんうえもん) 吉川弘文館 (1986-07-01出版)
ISBN:4642050469〔新装版)・宮本 又次【著】
[B6 判] NDC分類:289 販売価:1,943(税込)
 近世大阪随一の富豪鴻池家の初代から近代までの一貫した歴史を、従来未公開であった厖大な資料によって丹念に追求した力篇。醸造業から海運業へ、そして大名貸その他の金融業へと発展する財閥成長の過程を、歴代当主のすぐれた業績と人物とを織込んで叙述し、特にその同族組織や事業内容をも克明にえぐり出した画期的著作。