伊丹再発見シリーズ  ー白洲家と伊丹(2)ー 
 白洲次郎についてはすでにこのWebサイトで紹介していますが、引続き白洲家について市内在住の藤井裕行氏より情報をいただきました。白洲次郎のページに関心をもたれその後に判明した新たな調査されましたので紹介します。
 白洲家について
 白洲家は、遠く清和源氏の流れを汲み、山梨県北杜市白洲町白須が父祖の地とされている。このあたりは尾白川が運んできた土砂による扇状地で、花崗岩が風化した白砂による「洲」ができたことから「しらす」という名がついた。鎌倉時代の歌集「玉葉集」に次のような歌がある。

  うらとほき しらすの末のひとつ松 
      またかげもなく すめる月かな

                           藤原為家

 武田信玄以前の傍流に武田貞信という人物がおり、白洲と名乗ったのが白洲家の始まりと思われる。のちに天橋立で有名な丹後の加悦町(京都府与謝郡加悦町)の城主におさまる。 時代は下って江戸時代中期、子孫の白洲文蔵は尾張徳川家に仕え、軍学、書道に通じたが、浪人となって江戸へ赴く。やがて三田藩江戸留守居役の推挙により、儒官として三田藩(九鬼家で戦国時代の九鬼水軍の末裔)に招聘される。

 さて、白洲次郎の祖父、白洲退蔵は幕末の文政12年(1829)に三田藩内の薬師寺町に生まれ、長じて藩校の「造士館」の教授に就任している。アメリカの黒船が浦賀沖に姿を現したとき、幕命により漁民に変装して黒船に近づいて情報収集を行っている。
 一方、当時の三田藩の財政状況は危機的状況で、負債総額約20万両に対して、藩の金庫にはわずか30両を余すのみだった。 
そんな中、祖父の白洲退蔵は藩財政の窮状を打開するべく、改革に着手。全国的に有名な三田牛
(神戸牛)も、この白洲退蔵が飼育を奨励しました。

 明治元年(1868)、白洲退蔵は大参事(家老職に相当)に就任し、新政府における三田藩の地位向上に努める。やがて、慶応義塾創立者の福沢諭吉と深い関係をむすぶ。のちに白洲退蔵は、三田藩の殖産興業化に成功を収め、三田米を使った醸造事業を興し「牡丹正宗」という銘柄を作り、この酒が高い評判をとったことで、三田米の価格も上がり、藩庫は大いにうるおったといわれています。
 福沢諭吉の慶応義塾が財政的に立ち行かなくなったとき、これを支えたのが白洲退蔵や三田藩主の九鬼家であった。
 明治4年、廃藩置県により三田藩主の九鬼隆義は三田藩知事の任を解かれ、神戸市花隈四ノ宮通りに「宜春園(ぎしゅんえん)」と名付けた屋敷を購入し、父祖の地、三田を離れている。白洲退蔵も九鬼隆義の屋敷近くに居を構えた。明治5年、元藩主の九鬼隆義を筆頭にして、三田旧藩主16名で神戸市栄町5丁目に「志摩三商会」という貿易会社を、福沢諭吉の助言もあって設立。白洲退蔵が社長として辣腕をふるうが、事業が軌道にのると経営から離れ、やがて明治13年兵庫県初代県会議員となりました。
 前後するが、明治8年、白洲退蔵は自分の屋敷の一部を提供して、学校創立に協力。これが現在の神戸女学院である。白洲退蔵の長男が、白洲次郎の父、文平(ぶんぺい)であります。
 
神戸女学院について九鬼奔流のページより引用
 
九鬼奔流のページは水軍九鬼氏と三田市の歴史を詳細に紹介されているすばらしいページであり、単なる三田の歴史だけにとどまらず詳細にわたって幕末から明治維新の激動の時代について三田ゆかりの人物が紹介されています。以下の文書も当該ページより一部引用しています。
外国文化の受容
三田藩とキリスト教伝道上の関係は明治5年(一八七二)8月宣教師J.D.デーヴイス夫婦が宣教医J.C.べリーの勧めにより有馬温泉に避暑にこられた時、九鬼隆義の家族との交わりが始まわりである。 新奇志向的な明治初年の三田藩士にキリスト教を信奉する者が多数現われたのは、英蘭学的精神またはそれをバックボーンとする一種の進取的な気風があったからである。 三田藩は小藩ながら早くより洋装断髪を施行し、西洋風の生活を取り入れ、英学を推進、福沢諭吉をブレーンに持つなど、近代に村する感受において著しいものがあった。

 
明治六年(一八七三)3月31日エライザ・タルカット36才とジュリア・E・ダッドレー32才の二人の女性宣教師が神戸に着き、デーヴィス宅に旅装を解いた。
 アメリカン・ボードの先輩男性たちにまじって、二人でしょうとしたことは、日本の娘たちに本国で得た教師の経験を生かして、英語や唱歌を教えることだった。神戸宇治野村の英語学絞で校務の手助けをしていた二人は、同年十月神戸花隈村の旧三田藩士前田兵蔵の家を借り、三田の男女子弟など十数人に英語と唱歌を教え始めた。日本の女子教育の先駆けはキリスト教宣教師によってなされた。『背筋をまっすぐにして歩きなさい』これは猫背、内股でうつむきがちな明治女性に対する宣教師タルカットの叱咤である。『神の前に主体として立ちなさい』というメッセージは、封建的因習のうちに囚われていた女性にきわめて強いインパクトを与えた。
 タルカットとダッドレーの小さな学校は、それでも徐々に生徒をふやして行き手狭になったため、明治七年四月に私塾は北長狭通の旧三田藩士白洲退蔵の持ち家へ移った。神戸女学院の草分け時代と、三田の人々との関係はなかなか深いものがあった。五月に入りタルカットは私塾で教えるかたわら、デーヴィスを助け本来の布教にも従事し三田へ足を延ばした。この時、旧三田藩主九鬼隆義の夫人園子をはじめ、三田の女性たちの間に多くの共感者が次第に増えていった。タルカットが神戸へ帰る時、旧三田藩士の子女から、神戸で教育を受けたいとの希望が相次いで伝えられ、九鬼隆義からも旧領三田の子女達を教育してほしいと依頼があった、そうなると白洲家の住居では間に合わない。寄宿制の学校が必要だとタルカットとダッドレーは本国の伝道会へ『女学校を設立して寄宿舎学校としたい』旨を訴え、アメリカでは婦人伝道会が一口二十五ドルで募金を始め、五千二百ドルを集めた。一方新しい学校づくりの資金集めに奔走する九鬼隆義・白洲退蔵・鈴木清・前田泰一ら日本人の有志が八百ドルを寄付し、六千ドルの資金をととのえた。明治八年三月神戸・山本通り諏訪山の梅林近くの六千六百平方メートルの土地を旧三田藩士鈴木清名義で買収し、建築が始まった。木造二階建の清酒な洋館が姿を現わしたのは十月、『神戸ホーム』と名づけられた。タルカットとダッドレーは寄宿生十人と共に、この新しいホームに移り住み、通学生二十四人を合わせ三十四人の女性に授業を開始した。

 明治15年に明治学院に入学し、その後ハーバード大学やドイツのボン大学に留学。帰国後は三井銀行に入行するが「ソロバンをはじいていては世間が見えなくなる」と言って退社。次の職場として選んだのが、当時隆盛を極めていた繊維業界の大阪紡績会社(現在の東洋紡)。 その後、貿易会社「白洲商店」を神戸市栄町に設立。綿花を輸入する商社でアメリカの綿産地の天候情報を電報で報告させて相場を予測。収益チャンスと見ると大胆に買い付けて、短期間で大きな利潤をあげ、巨万の富を得た。

 明治35年 白洲次郎、兵庫県武庫郡精道村(現在の芦屋市)で誕生。当時、児童数200名足らずの精道小学校に通学。

 芦屋市立美術館所蔵の絵画作品に描かれている白洲家

 
芦屋市役所の関係部署に紹介した結果以下の回答をいただきました。

 芦屋市立美術館の所蔵絵画の中にある長谷川三郎が、旧制中学生のときに描いた油絵で、芦屋川沿いの風景を真正面から描いた素朴な雰囲気を持つ。長谷川三郎(明治39年~昭和32年)が、旧制中学校時代に描いた作品。
 決して筆滑らかな絵とはいえませんが高校生らしい一生懸命な気持ちが伝わってきます。川の流れを直角に見たとらえ方も、一風変わった個性を見せています。
 画面右の白い洋館は、当時芦屋に住んでいた画家、仲田好江さん(故人)の記憶によれば、白洲次郎氏(戦後、吉田首相の側近として占領軍と日本政府の交渉窓口となった)の実家とのことですが、大正時代後半のことでもあり、今となっては、その確認の方法を見い出すことはできません・・。

(国道43号線と芦屋川が交差する松林公園あたりの町並み情報があればメールください。)

 大正5年頃、兵庫県川辺郡伊丹町北村256番地(現在の伊丹市春日丘4丁目50番地付近)に移り住む。周りから「白洲屋敷」と呼ばれ、敷地は約4万坪もあり、その中には美術館(モネ、マティスの洋画をはじめ、雪舟、狩野派、土佐派の日本画、彫金細工や清朝の壷など何百点を収蔵)や牡丹畑もあり、レンガ造りの給水塔がそびえ、贅を尽くした大豪邸だった。
(左の写真は往時の給水等跡)
 昔の文化会館(現在の「いたみホール」)の裏手に古い酒屋があって、店の人の話によると大正10年から昭和のはじめにかけて、店の嫁入り前の娘さんが、白洲屋敷のメイドさんとして、通いで働いていたとのこと。
 屋敷には20人ぐらいメイドさんたちがいて、他に、屋敷のメンテナンスをする人や植木職人、酒屋、米屋、八百屋さんらが出入りしていたはずだと言う。
 また、昔の阪急伊丹駅近く(現在の高架下の阪急タクシー車庫あたり)に白洲さんの分家があって、酒を配達した記憶があるとのこと。
 白洲次郎は、何不自由ない暮らしの中、全国屈指の名門校神戸第一中学校(現在の県立神戸高校)に進学し、通学は芦屋から阪神電車で通った。広壮な邸宅が芦屋にあった。阪神芦屋の駅で電車を待つ白洲を、同級生たちが見かけている。

 父の白洲文平は、家を建てることが道楽で、それも豪邸を次々に建てている。それらは白洲屋敷と呼ばれた。完成してしまうと興味を失い、また次の建築にとりかかることをくり返した。とのエピソードがあります。すでにホームページで紹介していますが、大正9年、白洲文平は伊丹に開校した川辺郡立高等女学校の設立資金として1万円(現在の貨幣価値で5千万円~1億円)を寄付。この女学校は、その後県立伊丹高等女学校となり、戦後の学制改革で県立伊丹中学校と合併、現在の県立伊丹高校へ引き継がれる。
 大正10年、当時の伊丹町が、旧伊丹中学校(現在の北中学校)から白洲屋敷をへて緑ヶ丘へ通じるだけの細い農道を、バスや自動車が通行できるように拡幅する工事を行っている。
 祖父の白洲退蔵が神戸女学院の創立にかかわったことから、白洲家には外国人女性教師たちが寄宿しており、白洲次郎は彼女たちからネイティブの英語を学ぶことができた。そんな経過もあって、ケンブリッジ大学に留学。 昭和3年、父の「白洲商店」が金融恐慌のあおりを受けて倒産したという電報が留学先の白洲次郎にとどく。約8年間
(17~26歳)の留学生活に終止符を打ち、白洲次郎は旧国鉄の伊丹駅に戻ってきた。自慢の豪邸は、すでに担保にとられ、売却は時間の問題だった。
 昭和4年、27歳の白洲次郎はに樺山愛輔の娘、正子さんと結婚。仲人は明治維新の大久保利通の子息がつとめ、婚姻届は伊丹町役場に提出。白洲商店破産後は、英字新聞社の記者となり、その後商社の取締役に就任。大半を外国で暮らし、イギリスの日本大使館で吉田茂
(のちの首相)と出逢う。戦後、この地の一部が伊丹観光ホテルになったが、建築開業にあたって登記を調べたところ、債権者の数に応じて何筆にも分かれていたとのこと。
 伊丹市春日丘の白洲屋敷は、次々と人手に渡り、昭和10年代半ばに伊丹市内で大阪栄養工業株式会社(日本水産系?)を創始した八崎治三郎さんの所有となった。

 日本水産は、太平洋戦争が勃発すると農林省から水産統制令が発令され、日本海洋漁業統制会社(日水)と帝国水産統制会社(日冷)に分割。白洲次郎は帝国水産統制会社の取締役をしていた時期がある。
しかし、八崎家も昭和40年前後に屋敷を手放し、土地は分筆分譲されていった。
 ■屋敷跡は現在、自衛隊の官舎や個人の住宅になっている。

 現在の伊丹市春日丘4丁目50番地付近(屋敷跡地)


追記:三田市西山にある心月院は白洲家と三田藩九鬼家の菩提寺で、平成19年9月15日~11月30日まで「白洲家三代執跡展」が開催されています。
 白洲家および蘭学者で日本ではじめてビールを造った川本幸民の特別展示が本堂でされています。
 
心月院 
 寛永10年(1633)に鳥羽より移封された初代三田藩主九鬼久隆は、この地に在った梅林寺を増築し、寺号を改め天翁山心月院と称した。
 鳥羽の菩提寺常安寺の覚雄是的和尚を迎え開基し、九鬼家代々の宗廟とした。
寛文5年(1665)に山号を清涼山とする.境内には先代守隆から十三代隆義まで歴代三田藩主の墓石がならぶ。
(三田市教育委員会案内看板より。)

*上のパンフレットは拡大表示します。(クリック)
心月院正門。
九鬼一族歴代奥方と子供の墓所 白洲次郎・正子の墓(一番左の2基)
歴代三田藩主の墓所(白壁の塀で囲われている) 塀の内部
 男爵 九鬼隆一の墓 本堂の展示
三田藩士の系図 九鬼一族の墓所にある英文の墓碑
(天涯の船のモデルとなった。)
   
参考: 小説-天涯の船 玉岡かおる著(兵庫県加古川市出身作家)
 日本が近代化への道を急いでいた明治17年。姫君の身代わりとなった下働きの12才の少女ミサオは、米国への留学船で、船酔いと折檻まがいのしつけの日々。が、ある夜ミサオは、運命の人・光次郎に出会う。上陸後、美しく成長したミサオは、青年光次郎と再会するが、皮肉にもオーストリアの子爵家の血を引くマックスに求婚され、二度と日本に戻らぬ決意で欧州へ嫁いで行く。 身代りの少女、囚われの子爵夫人(ヴィスカンテッセ)、数奇な運命に弄ばれる愛。留学船、米国体験、そして光次郎との再会日欧近代史の黎明期に芽生えた大河恋愛小説。
 小説に出てくるモデルとなったおぼしき人物は、神戸ハーバーランドには神戸新聞社のある松方ホールがありますが、美術品の収集家と知られる松方コレクションゆかりの川崎重工業初代社長松方幸次郎やゲラン社の香水ブランドである有名なゲランミツコにゆかりのあるハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵に見初められて結婚したクーデンホーフ光子などを彷彿とさせるストーリーに、明治維新のころ日下部太郎など多くの日本人留学生が苦学した米国ラトガーズ大学などスケールの大きい展開に思わずのめり込み夢中になります。
 「天涯の船」の主人公、ミサオのモデルは、実業家・松方幸次郎の妻、九鬼好子といわれれいます。

■参考文献
  白洲次郎 占領を背負った男     北 康利/著  講談社
  風の男白洲次郎           青柳恵介/著  新潮社
  いたみティ  61号 70号 71号   伊丹経済交友会発行
  天涯の船                     玉岡かおる/著  新潮文庫
■聞き取り
  藤井哲男  市内春日丘4丁目在住
 
■記事引用
        藤井裕行氏調査資料。
        
九鬼奔流のホームページ  

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