伊丹再発見シリーズ白洲次郎と伊丹ー 
 白洲次郎といえば、日本一のダンディな男といわれ今なお話題の多い人物です。
白洲家は、摂津国三田藩の儒学者の家柄で祖父白洲退蔵は三田藩儒。また彼の父親白洲文平
(ふみひら)の別荘はわが町伊丹市春日丘にありました。
 吉田茂の懐刀ともいわれた白州次郎の父(白洲文平)が伊丹に構えた美術館付きの邸宅があったことなど忘れられた大正・昭和の伊丹の地域文化を掘り起こす「伊丹モダニズム再発見」展が、市制60周年にあたる昨年平成17年に伊丹市立美術館で開かれました。
(リンク-伊丹市立美術館特別展)

 伊丹の町は江戸時代から酒の町として栄えただけでなく、大阪のベットタウン(住宅都市)として発展しました。鉄道会社は、乗客を増やし収益の向上を図るため、自線沿線に積極的に住宅地開発を行い鉄道会社による住宅開発などによって 大阪のベットタウンとして都市生活者の中にはよりよい生活環境を求めて住まいを郊外に移したいと願う人々が多く、これらの人々が阪神文化を担ってきた町、伊丹の一面が紹介されておりました。 伊丹におけるモダニズムを見直し、あらたな発見となるすばらしい企画でした。
 
 2006年4月にはNHKの人気番組「その時歴史が動いた」で白洲次郎のことが放送されました。 このように伊丹にも縁がある白洲次郎について紹介いたします。
 雑誌からスキャナーで取り込んだたけ不鮮明でわかりにくいですが、
 コミュニティ誌「いたみティVol.61」2004年10月号に伊丹市在住の中森しげ子さん所有の伊丹が写っている珍しい絵葉書が紹介されています。
 その絵葉書(下の写真)には大正初期に三田市出身の芦屋に住んでいた実業家白洲文平が建てた白洲屋敷(現在伊丹市春日丘4丁目付近)が写っています。
 ちょうど猪名野神社から伊丹緑道沿いに北に上ったところが春日丘で、この地は高台になっており当時の白洲屋敷からは大阪方面を見下ろす景観地にありました。
この屋敷の規模は桁はずれにすごいです。なんと伊丹邸は敷地4万坪といわれ、伊丹段丘崖から東方を眺めわたす豪奢な建物であり、、中にはミレー、コロー、マティスらの名品を集めた美術館まであったという。名品で飾った美術館やボタン園などL字型の2階建てで贅の限りを尽くしたものであったが、昭和に入ってすぐに文平が破産し手放され、その後切り売りされましたが、写真の給水塔跡は昭和50年頃まで残っていました。
 その白洲文平の二男が白洲次郎です。また妻の白洲正子(旧姓樺山正子)も個性豊かな女性であり、文筆家でもあり陶芸,骨董品への造詣も深く知性あふれる女性です。
 大正から昭和の一時期に白洲次郎は伊丹町に籍をおいており、次郎と妻正子(随筆家)の婚姻届は1930(昭和5)年、伊丹町役場に提出されています。
 このような人物が我が町伊丹にゆかりがあったことは非常に嬉しく思います。


 上の写真は「いたみティ」Vol.61に掲載の記事より引用。

Google Earthによる位置表示。(上記写真とほぼ同じ視点)



 まずはじめに、白洲次郎について、ネット上のフリー百科事典で検索してみると。
  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より検索引用。

白洲次郎(しらす じろう、1902年2月17日 - 1985年11月28日)は日本の実業家。貿易庁(通産省)長官、東北電力会長等を歴任。吉田茂の側近として活躍する。夫人は、作家・随筆家の白洲正子。身長185センチ、容姿端麗、スポーツ万能で晩年には三宅一生のモデルを務めたこともある。不思議なことにこれほど話題性のある人だが、彼が注目されだしたのはつい近年のことである。
生い立ち
1902年(明治35年)2月17日兵庫県武庫郡精道村(現、兵庫県芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の次男として生まれる。(別邸は兵庫県伊丹市)白洲家は、摂津国三田藩の儒学者の家柄で祖父・白洲退蔵は、三田藩儒。明治維新後は鉄道敷設などの事業を興し、一時横浜正金銀行の頭取も務めた。また、神戸ホーム(神戸女学院の前身)の創立にも携わる。父文平は、ハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績を経て綿貿易で巨万の富を築いた。

1919年(大正8年)旧制第一神戸中学校(現、兵庫県立神戸高校)を卒業。神戸一中時代は、サッカー部・野球部に所属し、手のつけられない乱暴者として知られ、当時、既にペイジ・グレンブルックなどの高級外国車を乗り回し、後のカーマニア・「オイリー・ボーイ」の片鱗を見せていた。同級生には、後に作家で文化庁長官となった今日出海、中国文学者で文化功労者となった吉川幸次郎がいる。妻、白洲正子は随筆家、長男(第一子)白洲春正は元東宝東和社長、次男(第二子)白洲兼正、長女(第三子)白洲(現姓:牧山)桂子は旧白洲邸・武相荘館長。1942年東京都町田市鶴川へ転居し、農業に従事した。

イギリス留学
神戸一中を卒業しイギリスに留学。ケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学し、西洋中世史、人類学などを学ぶ。自動車に耽溺し、ブガッティやベントレーを乗り回す。ストラトフォード伯ロビン・ビングと終生の友となる。ロビン・ビングとは、ベントレーを駆ってジブラルタルまでの欧州大陸旅行を実行している。1925年(大正14年)ケンブリッジ大学を卒業。1928年(昭和3年)父の経営していた白洲商店が倒産したため、帰国を余儀なくされる。

帰国
1929年(昭和4年)英字新聞「ジャパン・アドバタイザー」に就職し記者となる。友人樺山丑二の紹介で妹の正子と知り合い、結婚する
。樺山正子との婚姻届は兵庫縣川邉郡伊丹町役場(現兵庫県伊丹市)、に提出されています。
その後、セール・フレイザー商会取締役、日本食糧工業(後の日本水産)取締役を歴任する。この間、海外に赴くことが多く、駐イギリス大使であった吉田茂の面識を得、英国大使館を自らの定宿とするまでになった。また、この頃、牛場友彦や尾崎秀実とともに近衛文麿のブレーンとして行動すると宣伝されているが当代の碩学の揃った「朝飯会」では無論、端っこにいる存在である。

ヨハンセン・グループ
 1940年(昭和15年)来るべき日米戦争を予感し(夫人の白洲正子によれば、臆病なので空襲をおそれて)、事業から手を引き、鶴川村・武相荘(ぶあいそう)に隠棲。カントリー・ジェントルマンを自称する。食糧不足に対処して農業に励む日々を送る一方で、吉田茂を中心とする「ヨハンセン・グループ」(宮中反戦グループ)に加わり、終戦工作に奔走し、ここから白洲の「昭和の鞍馬天狗」としての活動が始まる。

終戦連絡中央事務局
 1945年(昭和20年)東久邇宮稔彦王内閣の外務大臣に就任した吉田茂の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。ここから、白洲次郎の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を向こうに回した戦いの火ぶたが切られる。白洲はGHQ/SCAPに対して当時の日本政府及び日本人がとった従順過ぎる姿勢とは一線を画し、英国仕込みの流暢な英語(白洲は日本語を話す方が訥弁になった)とマナー、そして本人が元々持っていた押しの強さとプリンシプル(原則)を重視する性格から、主張すべきところは頑強に主張し、GHQ/SCAP要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わせしめた。

 昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に、ぞんざいに扱われたために憤激して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置いてくれとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせた。マッカーサーは当時、神と崇められるに等しい存在だったが、白洲次郎に申し訳ないと謝った。 GHQ/SCAP民政局長のホイットニー准将に英語が上手いと言われ「あなたももう少し勉強すれば上手くなる」と逆襲した、などGHQ/SCAPとの交渉の間に生まれたエピソードは数多い。

憲法改正
 同年には憲法改正問題で、佐々木惣一京都帝国大学教授に憲法改正の進捗を督促する。1946年(昭和21年)2月13日松本烝治国務大臣が中心として起草した憲法改正案(松本案)がGHQの拒否にあった際に、GHQ/SCAP草案(マッカーサー案)を提示されている。白洲は2月15日にGHQ/SCAP草案の検討には時間を要するとホイットニーに宛てて書簡(いわゆる「ジープウェイ・レター」)を出し時間を得ようとするが、これはGHQ/SCAPから不必要な遅滞は許されないと言明される。1946年3月に終連次長に就任。8月経済安定本部次長に就任。1947年(昭和22年)終連次長を退任する。

(写真はNHKその時歴史は動いたー「マッカーサーを叱った男」より。)
 NHK「マッカーサーを叱った男」の番組では彼の個性から来る様々エピソードを通じて彼の戦後の活躍が、憲法改正だけでなくGHQの統制経済の破綻から脱却して、日本が貿易立国として通産省を立ち上げその経済復興の基盤をつくったことなど、戦後の混乱の時代になPrinciple(原則)を貫く人物と吉田茂との関係などと通じて白洲次郎の人物像を紹介した内容です。
 「いまに見ていろ、とひそかに涙する。」という彼の言葉が物語るように、彼はGHQ内部の社会主義的なスタッフのいる民生局の干渉により昭和22年6月社会党片山内閣誕生、引き続き民主党の芦田内閣も昭電疑獄で総辞職。経済も好転せず、いずれも短命内閣で終わる中にあって、再度第2次吉田内閣が発足。 彼も返り咲きを果たした。そして彼は民生局の内政干渉を阻止するため、内部で民生局に対立するGHQ参謀2部に周到な根回しをして民生局の勢力をそぐことに成功。ついにマッカーサーもGHQの総意として吉田内閣で問題なしと結論づけた。
 吉田内閣で彼は貿易庁長官として日本経済の自立をめざした。しかし庁内では賄賂が横行する体質の中で、彼は毅然と汚職職官僚を糾弾して組織の改革に取組む。. また当時はアメリカの援助物資を売却した資金をもとにした政府補助金を基本にした貿易体制では決して日本の経済的な独立は成しえない。と結論付け、彼は官僚の干渉や妨害をはねのけ自由貿易をめざしてた省庁、昭和24年5月通商産業省を立ち上げ戦後復興の基盤を作った。白洲は通産省の立ち上げをみとどけた後、ひっそりと公職を離れたため、「風の男-白洲次郎」と呼ばれた。 その後、昭和26年サンフランシスコ講和会議に出席のため、一民間人として吉田に呼ばれて同行する。そこで白洲は講和条約受託演説の原稿は外務省が先方とすりあわせて美辞麗句で相手を賞賛した内容でしかも英語で書かれている原稿に激怒して、それを日本語に改め堂々と日本語で吉田首相に演説させるなど最期まで彼独特のプリンシプルを貫く男であった
    
     戦後の日本について語った言葉
   われわれが現在声たからかに唱えている新憲法も,デモクラシーも、
  我々の本当の自分のものになっているとは思わない。
   それが本当に心の底から自分のものになった時においてはじめて
  「戦後」は終わったと自己満足してもよかろう。

 もし日本が戦後の混乱期をうまく乗り切れず社会主義への道を歩んでいたり、経済の独立が達成できなかったら、今のようなMade in Japan が世界中で信頼のブランドとなる技術大国や経済発展は実現しなかったでしょう。そのような意味で彼のように品位を重んじ、私利私欲にとらわれずみずからのプリンシプル(原則)を貫く大胆な人物がこの時代に活躍したことに大いに感動しました。日本の復興にとって彼のような卓越した人材に恵まれたことが非常に幸運であった。平成18年4月に放送され、10月に再放送されましたが、本当に見ごたえのある内容でした。

国立国会図書館のページ「日本国憲法の誕生」(クリック)より引用。
 
1946(昭和21)年2月15日、白洲次郎終戦連絡事務局参与は、松本烝治国務大臣の
 意を受けて、ホイットニー民政局長に宛て、GHQ草案が、松本等に大きな衝撃を与え
 たことを伝え、遠まわしに、「松本案」の再考を希望する旨の書簡を送った。白洲は、「
 松本案」とGHQ草案は、目的を同じくし、ただ、その目的に到達する道すじを異にする
 だけだとして、「松本案」は、日本の国状に即した道すじ(ジープ・ウェイ)であるのに対
 して、GHQ草案は、一挙にその目的を達しようとするものだとした。この書簡に対して、
 ホイットニー局長から、翌16日、返書が寄せられ、同局長は、日本側が、白洲の書簡に
 よってGHQの意向を打診し、「松本案」を固守しようとする態度に出ているとして厳しく反
 論し、国際世論の動向からも、GHQ草案を採ることの必要性を力説している。

  (下のイラストは国会図書館資料ページより引用)
  
   白洲はホイットニーの方法はYour way として一気に民主化ヘ
   の目的(object)を目指すものとし、松本氏の考えはTheir wayとし
   て手紙にイラストを入れてジープ・ウエイの説明をしている。
    
(武相荘にもタイプライターとともにこの手紙が展示されていた。)
参考文献(Letter from General Whitney to Mr. Shirasu, dated 16 February 1946, answering
   "jeep way letter"ホイットニーから1946年2月16日付の返事)ー国立国会図書館のページより。
(リンク)


貿易庁初代長官
 1948年(昭和23年)商工省に設立された貿易庁の初代長官に就任する。経済復興には輸出振興が必要であるとし、通商政策の強化を目的とし、商工省を改組し、通商産業省設立の中心的役割を果たした。これはGHQの圧力を利用した通産省の池田派占有のロビー活動でしかなかったと批判されつづけている。1950年(昭和25年)講和問題で、池田勇人蔵相、宮沢喜一蔵相秘書官とともにアメリカに渡り、ジョン・フォスター・ダレスと会談し、平和条約の準備を開始した。

1951年(昭和26年)9月サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ、英語から日本語に直し、沖縄の施政権返還を内容に入れさせた。吉田退陣後は、政治から縁を切り、実業界に戻る。

実業界へ復帰
 既に吉田側近であったころから電力事業再編に取り組んでいた白洲は1951年5月に東北電力会長に就任する。昭和34年(1959年)に退任するまで、精力的に動き福島県奥只見ダムなどの建設を推進した。東北電力退任後は、荒川水力発電会長、大沢商会会長、大洋漁業、日本テレビ、ウォーバーグ証券の役員や顧問を歴任した。

ゴルフ
 白洲は、日本ゴルフ界を語るには欠かせない人物でもある。白洲がゴルフを始めたのは本人によると14、5歳の時からで英国留学中はゴルフはしなかったが、帰国してから熱中した。昭和51年(1976年)軽井沢ゴルフ倶楽部の常任理事に就任。メンバーは皆平等、ビジターを制限し、マナーにことのほか厳しく、「プレイ・ファスト」を徹底させた。1982年(昭和57年)同倶楽部理事長に就任する。

 田中角栄に対しては、クラブの会員でない秘書が総理秘書だからといってプレイしようとしたことを拒否した一方で、田中が手ぬぐいを腰に差すのは、合理的で良いと是認するなど「プリンシプル」に合致した公正な判断をしている。白洲は田中に対しては、人物を認めつつも、余りに金銭的に苦労したことを惜しんでいた。晩年の白洲が政治家として最も評価していたのは宮澤喜一であったが、白洲正子は、これを「白洲も人を観る目がなかったのね」と評している。

親友との再会
 親友ロビン・ビングとは、互いに祖国が戦争状態に入るという不幸な時期を経て、1952年(昭和27年)ロンドンで再会を果たした。最後にロビンと会ったのは昭和55年(1980年)のことであった。

死去
 80歳までポルシェを乗り回し、ゴルフに興じていたが、1985年(昭和60年)11月に正子夫人と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し、胃潰瘍と内臓疾患で入院。同年11月18日死去。83歳。墓所は兵庫県三田市。正子夫人並びに御子息に残した遺言書には「葬式無用 戒名不用」と記してあった。 三田市にある心月院には三田藩主九鬼家の墓所があります。ここに次郎の母が県下に分散していた墓を一つにまとめ改葬したという白洲家の墓地もあります。
三田市にある白洲家の墓地神戸新聞のページ(クリック)より引用。
   
http://www.kobe-np.co.jp/chiiki/rensai/200410sanda/25.html

エピソード
日本人で初めてジーンズを穿いた人といわれている。長い足に映えた。ラッパズボンも愛用しこれも似合った。戦後の日本でGHQに対してプリンシプルを貫き「従順ならざる日本人」といわれた本当の意味でnoblesse oblidge (高い身分の者に伴う義務。)という言葉が彼ほど似合う人物はいない生き方である。時代の激しい変化の時代にこのような人物がいたことは幸運で変わり目に

 
また昭和26年9月号の文芸春秋に白洲次郎が寄せた一文「日曜日の食卓にて」で父親白洲文平(しらすふみひら)について語ったいます。 父親白洲文平氏もまたこのような豪快な人物であったことがうかがわれます。−「風の男 白洲次郎」 青柳恵介著 新潮社。より引用。
 
 僕はよく傍若無人だと言われるが、僕の死んだおやじに比べれば、傍若無人なんておよそ縁が遠いと思う。死んだ親父は、こういう人だった。
 建築道楽で、家ばかり建てていた。道楽はたくさんあって、ほかの、あまり言いたくない道楽もあったが、そして、いつでも建てる家は日本館にきまっている。僕のおやじは外国育ちの男だ。そこで西洋館は靴を脱がないでもいいから西洋館がいいじゃないかと言ったら、外国じゃ道がとてもきれいだ。だから靴のまま上ったって汚くない。だけど日本みたいな、こんな汚い道を歩いて来て、そのまま上られたらたまらない、だから日本館がいいと、言う。ところが、そのおやじは靴履いて畳の上を歩くのだ。そして人が汚いじゃないですかと言うと、俺は別だと言って澄している。これがほんとの傍若無人というものだ。
 僕のおやじは、子供のときから外国育ちで、ほんとの意味のお洒落だった。晩年は九州の、大分と熊本との国境に、百姓をして独りで住んでいた。もっとも女中かなんかはいたけれども、東京に来るときは、木綿の刺子の紺の股引をはいて、上にはツイードの洋服を着て、荷物は全部猟に行くときの網に入れて、それで東京に来て平気で歩いている。そういう人だった。死んだという電報が来たので、妹が行ったら、ベッドに独り死んでいて、ベッドの下を見たら、棺桶が入っていた。それはほんとの田舎で、身体が大きいから、出来合いの棺桶ではあとの者が困るだろうというので、前からつくってあったのだ。こういうことも皆傍若無人の現われといえよう。 


地域の有力者だった白洲文平氏(大正10年の新聞記事より。)

  伊丹市広報紙?(大正10年)と思われる新聞記事コピーをある郷土史研究の方からいただきました。
 記事の内容は9月15日に開会された伊丹町会の内容で、議題が寄付採納2件、郡立女学校費の件、町予算更正追加の件となっている。(右の写真ークリック拡大表示。)
 寄付採納の2件は、1件目はコピーが黒くて読みにくいですが、「池上茂兵衛氏より金200円を伊丹小学校基本財産に寄付。」 そして2件目は、
  「郡立高等女学校設立に関し町費中へ左の通り指定寄付」
     二萬円 小西 新右衞門 
     一萬円 白洲  文  平
     八千円 武内 利右衛門
     七千円 武内 佐次郎
     四千円 岡田 利兵衛

 と寄付者の記載がつづき合計6万2千3百50円の寄付が異議なく可決された。
また下の段の記事では「中学校横より、白洲氏邸前に通ずる道路新設の件」と記載されています。
 現在の小西新右衞門はじめ酒造家ら上位4名の多額寄付で全体の寄付額の半分以上も占めています。当時の1万円といえばどれだけの価値があったのでしょうか。白洲文平氏は伊丹の有力者として地域にも貢献されています。(この新聞ならびに関連情報があればメールください。)

追 記
 伊丹市内のコミュニティ誌「いたみティ」Vol.70、2007年1月号に
「伊丹の白洲屋敷にあった大水槽の写真見つかる」という記事が紹介されています。 わたしもこの水槽は子供のころ近くを通って在ったことを覚えてますが、何の建造物かまったく知りませんでした。
 写真は、水槽の隣接地にお住まいの元木俊幸さん宅に保存されていた写真が掲載されており、その大水槽の高さは約10メートルあり、ツタが生い茂っている珍しい写真です。 
 元木さんの話では倒壊の危険性が高くなって平成元年頃に取り壊されたという。ことです。白洲屋敷の敷地は4万坪(132,000平米)といわれ、この大邸宅は,昭和5年ごろ、文平が破産したため手放し、その後分割して売られ相次いで住宅ができた。このとき水槽も壊そうという話がでたが、「だれかがたたりがある。」といいだしたところから残った。とのこと。
 白洲文平が寄付した女学校建設のための1万円は現在の貨幣価値で5千万から1億円にあたるものであり、この郡立高等女学校はその後県立伊丹高等女学校となり戦後の学制改革で県立伊丹中学校と合併、現在の県立伊丹高等学校へと引継がれた。
(「いたみティ」Vol.70より引用。) 
 もし取り壊さなかったら、おそらく平成7年に当地を襲った阪神淡路大震災ではきっと倒壊して付近に被害が出ていたかもしれません。
 いずれにせよ屋敷への給水に水圧が必要でこの大水槽が付設して造られたのですが、一軒の家屋に使う水槽だけでもこれだけの規模が要ったということは往時の屋敷の規模がいかに大きかったのか想像できます。

伊丹再発見シリーズ  ー白洲家と伊丹(2)ー(続き)




現在系図ワールドのページ。より引用。


吉田茂
との係わりに関して、白洲次郎は、
「吉田さんの奥さんは牧野伸顕の娘さんで、牧野伸顕は鹿児島出身で、大久保利通の二男なのです。

僕の女房は、やはり鹿児島出身で樺山愛輔の娘です。
そんな関係で牧野伸顕を知っておったから吉田さんも知っていたということです。

吉田さんが英国の大使をしている時分(昭和11〜13年)によくロンドンに行ったんです。そのころ、私は日産コンツェルンの外国関係の責任者だったんです。まだ若くて、三十歳ちょっとくらいです。
その時分にロンドンに行ってよく話したりしまして、はじめて大人の付合いがはじまったということでしょうね。」

 

 東京都郊外の町田市には白洲次郎・正子夫妻が農家を買い取り改装して住まいとしていた住居を娘の牧山桂子さんが武相荘として公開されています。
 落ち着いた佇まいの中で、骨董蒐集に卓越した白洲正子さんのコレクションの展示など様々なイベントや展示もされており、四季折々の花木も楽しめます。
  この武相荘は2002年11月に町田市の指定史跡となっています。
 *邸内の撮影はできませんが、ちょうどテレビ番組で前日に紹介されたので多くの見学者が来られていました。落ち着いた雰囲気の庭や茅葺の家屋など撮影しました。(H.18.7.20撮影)

    

  

武相荘のページへリンク
*武相荘のページより引用記事。
 父・白洲次郎は、昭和十八年(1943)に鶴川に引越して来ました当時より、すまいに「武相荘」と名付け悦にいっておりました。武相荘とは、武蔵と相模の境にあるこの地に因んで、また彼独特の一捻りしたいという気持から無愛想をかけて名づけたようです。 近衛内閣の司法大臣をつとめられた風見章氏に「武相荘」と書いて頂き額装して居間に掛けておりました。
 私は両親を親としてしか見た事がなく、同じ様に私が育ち、両親が人生の大半を過した現在の茅葺き屋根の家に対しても、ただ家という認識しかありませんでした。
施設概要
■名称 旧白洲邸 武相荘(ぶあいそう)
■住所 〒195-0053 東京都町田市能ヶ谷町 1284
■電話 042(735)5732
交通アクセス
■徒歩 小田急小田原線鶴川駅下車、徒歩15分