伊丹再発見シリーズ
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有岡城と荒木村重ー 
H26..5.4 追記(クリック)
    
      2014年NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で荒木村重が登場します。

 
 豊臣秀吉  荒木村重  だし姫

 歴史上の人物を評価する場合どの視点から見るかによって、その評価や認識は様々なものになります。また後世になって伝承される内容が、時として小説などで史実を離れて誇張されたり捏造されている場合もあり、なかなか客観的に史実を追うことは難しいものがあります

 わが町、伊丹にゆかりの深い戦国武将、荒木村重の場合はどうでしょうか。柴田勝家や羽柴(豊臣)秀吉とともに織田信長のもとで数々の軍功を重ね信長の家臣として摂津の国を治める摂津守にまで出世しました。
 しかし残念ながら村重は毛利方に寝返り、主君信長に反旗を翻し、ついに居城であった有岡城に立て篭もり一戦を交えるのですが、最後には一族や家来を残したままで毛利方に逃げ去った卑怯者と思われています。
 また「酒は飲め飲め飲むならば。。」というあの黒田節は、筑前・黒田五十二万石の城下町から発展した福岡市の家祖である黒田官兵衛の家臣であり黒田24騎の一人である母里太兵衛ゆかりの歌。
 今年2004年は黒田官兵衛没後400年を迎え、官兵衛にゆかりの深い姫路市などではその卓越した彼の軍師としての戦略能力や参謀として活躍した官兵衛を顕彰するイベントなどが開催されています。

 黒田官兵衛の史実として特に有名なのが、荒木村重の謀反を改めるよう説得に有岡城に来たところ捕らわれの身となり、有岡城の牢屋で1年近く幽閉されました。
 歴史小説などで紹介される伊丹にゆかりの戦国武将荒木村重に対する歴史上の評価は常に裏切り者として定着していくのが伊丹市民として残念です。

 はるか400年以上も前の史実を追うことは難しいですが、村重は少なくとも郷土ゆかりの人物として激動の戦国時代をたくましく生き抜いた戦国武将であり、言い伝えられる信長への謀反はなぜ起きたのか、また村重の苦悩なりその後の行動を通じで、荒木村重に関する郷土の誇りとなるような共感がもてる史実がないのでしょうか。
 そんな思いから今回は荒木村重に関する小説やインターネットを使って関連するページなどを参考にして史実を追ってみました。

 ではネット上だけでも膨大な資料が入手できますが、膨大な資料のなかからどこに焦点をあてて説明していけばいいのかという選択や判断まではパソコンはしてくれません。
 好奇心を盛り上げ当時の状況に思いを馳せて調べていくことは手間がかかりますが、それにもまして新たな発見があり、楽しい作業でもあります。

 
ともかく国指定の史跡有岡城跡が伊丹にあること、そしてより多くの皆さんが有岡城や村重と伊丹に関心を深めていただければ幸いであるという思いから、このページを追加いたしました。
 また伊丹市の名誉市民である岡田利兵衛氏の説では、古くは有岡が伊丹の古名として知られ、当地にあった、天正の武将荒木村重の居城も有岡城と呼ばれたが、本来有岡の呼称は「有明の岡」という伊丹の古名であったのでロータリークラブの名称を有明と名付けたと説明されています。
(伊丹有明ロータリークラブのページ引用)

 武将の名称や時代背景など歴史家の専門家から見れば間違いや不適切な記述表現などあるかもしれませんがご容赦下さい。

有岡城はじめ伊丹市内の名所の紹介をされている山本氏「我が町・伊丹」ページへ(クリック)

有岡城の戦い(ウィキペディア)


 ・伊丹荒木軍記/伊丹市立博物館蔵

 (寛文9年の伊丹郷町絵図-伊丹市立博物館蔵)
  戦国時代について
 
「有岡城」はやはり中世の戦国時代の時代の背景を抜きにしては語れません。その戦国動乱時代の極みたるものが下の者が武力などによって上の者を滅ぼしてのし上がる「下克上」と呼ばれたものであります。
 戦国時代の武将は大半がこの下克上によって大名となったりしたりした、まさに波乱万丈の時代であります。またその反面戦国時代は日本のルネッサンスともいわれています。
 それは中世的貧困と因習の中に沈潜していた日本が諸侯の戦やキリスト教の伝来などを通じて活発に動きはじめたのもこの時期であります。
 1543年、種子島に漂着した中国船に同乗していたポルトガル人が鉄砲を所持していた。これを購入した種子島時尭は、研究を重ねついにその複製に成功する。 この結果、戦場では鉄砲という新兵器の火器がまたたく間に導入され、天下統一の戦いを大きく左右することとなります。

 またザビエルが、キリスト教宣教師として初めて日本の土を踏んだのは、1549年8月15日のことでした。
 鉄砲が伝えられてから、わずか6年後のことであります。彼の2年あまりの日本滞在の間に、ザビエルは薩摩(鹿児島県)、平戸(長崎県)、周防山口(山口県)、堺(大阪府)、京都、豊後(大分県)を訪れ、各地で活発な布教活動を行いました。
 鉄砲伝来に続く、ザビエル来日とキリスト教の伝来は、日本人の信仰のみならず生活文化や芸術の分野において無視できない大きな影響を与えました。また極東への宣教師たち派遣は、西欧の国々にも、それまでとは異なった新たな文化の出会いをもたらしました。
 鉄砲伝来から僅か数十年(戦国末期から朝鮮出兵前後)で、日本は世界有数の鉄砲保有国(おそらく当時では世界一)となりました。

  また同時に戦国時代から安土桃山時代と続く16世紀は日本民族が自ら持てる力が最大限に発揮できた時代でもあり西洋のルネッサンスに勝るとも劣らない能楽や茶道、華道など華やかな芸術の開花もあり、また同時に一向一揆
(浄土真宗の信者が中心となって起こした一揆で15世紀の半ばに始まり各地の戦国大名を苦しめた。)やキリスト教の普及などによる精神の解放と民族的活力が高まった時代でありました。

 ヨーロッパ諸国が大航海時代にあってアフリカや新大陸を求めてその勢力を拡大し資源の収奪や異文明の破壊などが頻繁に起こっていた時代にあって、日本が独立を保って来られたたのは様々な要因があります。一説によると当時のイエズス会の宣教師が本国に日本の事情について報告していた日記に記されている内容には、日本での鉄砲普及に見る技術力の高さ、それをさらに一斉射撃など戦術にすぐに応用していく知恵が驚嘆すべき事実として記録されていたそうです。
 この鉄砲製造にみられる熟練度の高さや製造能力は他国に見られない日本人の特性であり、さすがの宣教師もこの時点で日本を征服するには困難との認識をもっていたのでしょう。

 またこの時期には尾張長島や北陸各地で起こった一向一揆は浄土真宗の護法により僧侶が先頭に立って行われた聖戦でありました。その後1571年の比叡山の焼き討ち、1575年に石山本願寺
(現在の大阪城本丸跡)との最終攻防戦へと続きました。
 また一向一揆は信長が利用しようとしたキリスト教の普及を阻止した一種の宗教戦争でもありました。
 古来、日本の戦場では戦利品の一部として男女を拉致していく「人取り」(乱妨取り)がしばしば行われており、日本人領主からそれを買い取ったヨーロッパ商人や中国人商人の手によって、東南アジアなどの海外に連れ出されたものも少なからずいたと考えられている。
 1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教のさまたげになり、宣教師への誤解を招くものと考え、たびたびポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めていたが、1571年に当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。 それでも奴隷貿易は根絶にいたらなかった。
  1587年(天正15年)、豊臣秀吉は九州討伐の途上で当時のイエズス会の布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョを呼び、バテレン追放令を発布して、人身売買と宣教師の関わりについて詰問している。
 また1596年(慶長元年)、長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンス(Don Pedro Martins)はキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している。
 もし明智光秀が信長を撃たなかったら,信長は1569年にフロイスと謁見して京都在住を許すなど、キリスト教を是認していましたので、その後のキリスト教の普及が日本の文化様式や習俗を変えてさらに西欧の侵略者による植民地化が促進され、極端な話ですが、今ごろは南米諸国のように日本人の名前もペテロやカルロスなど西洋化され日本語も消えていたかも知れません。
 幸いその後天下を取った秀吉は、その宗教のもつ危険性を認識しており、「バテレン禁止令」を出しました。そして日本が鎖国に踏み切り、日本人の海外渡航並びに入国が禁止され、外国人商人の活動を幕府の監視下で厳密に制限することによって日本人が奴隷として輸出されることはほぼ消滅したとされています。
 後の徳川政権もこの政策を引き継ぎました。今風に言えば専守防衛政策であり、外へは出ないで、国内の平和を守るという選択です。
  そして、諸外国との交易も完全に閉ざしてしまうのではなく、長崎の出島でオランダ、中国に限定した交易を許し、鎖国政策を進めました。

有岡城の歴史
 JR伊丹駅前の国指定史跡「有岡城」は、もとは伊丹一族が築造したものであります。歴史上伊丹氏についてはあまり資料が入手できなかったですが、平安中期以降、猪名川流域を中心に都の貴族や大社寺の荘園が営まれ、その管理にあたっていた武士団の中から伊丹氏が台頭。伊丹一族は、足利尊氏の鎌倉挙兵や、楠木正成・新田義貞との戦いなど多くの戦功を挙げ南北朝を生き抜いて「伊丹城」を築いたといわれています。

 鎌倉時代の末期、関東御家人の中でも守護代的重役にあった伊丹氏は、この地をまかされ居館を築く。伊丹一族は、足利尊氏の鎌倉挙兵や、楠木正成・新田義貞との戦いなど多くの戦功を挙げ南北朝を生き抜いて「伊丹城」を築きました。永正5年(1508)細川家の対立(細川高国と細川澄元の争い)で、高国方の伊丹氏も内紛に巻き込まれる。同8年には澄元方の播磨守護赤松義村が摂津に攻め入って伊丹城を包囲するが、伊丹城は落ちずに赤松勢は播磨へ撤退する。
 同16年、澄元勢の伊丹城総攻撃によって落城する。この時城を守っていた伊丹但馬守と野間豊前守が「天守にて切腹」している。澄元は伊丹城へ入るが、すぐに高国の反撃にあい播磨へ撤退する。澄元の死後、後を継いだ晴元と高国の争いが、山城・丹波・摂津で大乱となった。各地の城は片っ端から落城していったが、伊丹城だけが健在であった。
 永録11年(1568)織田信長に攻められた池田勝正(池田城主)は信長に降伏する。以降、勝正に仕えていた荒木村重は織田方として茨木城・尼崎城・芥川城・高槻城などを攻略し、元の主君である池田勝正を追放して池田城も手中にする。荒木村重は、池田城にいた池田氏の家臣でしたが、のちに織田信長に仕えて信頼を得ました。 
 しかし、天正二年(1574)、伊丹氏を打ち落とした荒木村重が伊丹親興にかわって伊丹城に入城して有岡城と改名し、摂津国の支配を任されました。

 信長は村重を摂津守護として38万石を与え、本拠を伊丹城に置く事を認めた。村重は「伊丹」を「有岡」と改め城を改修する。 荒木氏は丹波国八上城(篠山市)にいた波多野氏の一族といわれています。

 また有岡城跡の近くにあるJR伊丹駅に隣接して荒村寺があります。荒村寺の由来記によれば、この寺に伊丹郷町の木綿屋徳三郎が禅宗に深く帰依し、郷町の堺町にあった閑室に、嘯山虎渓(しょうざんこけい)和尚を招いて、参禅したのが始まりで、ついで法国尼僧らがこの庵室をまもった。寛政12年(1800)堺町の都塵を避けて、現在の城跡に移された。人々はこの庵庵を城山庵とよびならわしていたが、荒木村重の古城の由緒をもって、荒村庵と改名され、現在の寺号のもととなった。

寺内には
江戸時代の伊丹の俳人、上島鬼貫が有岡城を訪ねたとき、いばらの茂みに隠れて鳴く、キリギリスの侘しい光景に心打たれて詠んだといわれる「古城や、茨(いばら)くろなる、蟋蛭(きりぎりす)」の句碑がある。

 発掘調査では日本で最古と言われる「惣(総)構」の痕跡が、今の伊丹市の街角にも至る所に残っています。近世以降の「惣構」を持つ城でも、現代の都市計画などで痕跡すら残っていない都市が多く見られる中、天正4年(1576)に築城された織田信長の安土城石垣より古い石垣が発掘された。当時の城は軍事的な物だけが作られていたが、有岡城には庭園を設けて風雅を楽しんでいたことも遺構で確認されている。」 近世城郭は有岡城をモデルにしているのではないかと言われる所以である。

 その改修された有岡城は、ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスに
「甚だ壮大にして見事なる城」と讃えられたほどでした。有岡城が幾度もの合戦で落城しなかったのは、「総構え」を配していたからであろう。伊丹台地が東に突き出した先端部に主郭、西に「女郎塚砦」・南に「鵯塚砦」・北に「岸砦」を配していた。

 ある説によると伊丹に西日本の防衛の要となる陸上自衛隊中部方面総監部および第3師団駐屯地が設置されたのも戦国時代とは戦術戦法の違いがあっても、伊丹台地は摂津の中心に位置し地形上も自然の要害であるため警察予備隊第3管区総監部として決定された。と用地担当者が当時の駐屯地新聞に書き残している。

 織田信長のもとで数々の軍功を重ねた村重は、やがて摂津の国を治める摂津守に出世する。信長の家臣として、毛利の支援を受ける石山本願寺(現在の大阪城付近にあった)との戦い(石山合戦)でで第一線で戦いました。その最中に村重は毛利方に寝返り、信長に反旗を翻すのであります。

荒木村重の謀反
 荒木村重のプロフィール
  法名:心英道薫禅定門 墓所 南宗寺(大阪府堺市)
 1535年(天文4)荒木義村の子として誕生
 1574年(天正2)伊丹新興の伊丹城を攻略し「有岡城」と改名。有岡城主となる。
 1586年(天正14)5月4日堺にて没す。

 摂津国 池田城主・池田長正の家臣・荒木信濃守義村の嫡男として池田(現・大阪府 池田市 )に生まれる。幼名を十二郎、のち弥介(または弥助)。
 最初は池田氏の家臣として仕えたが、織田信長 が上洛してくるとその配下となる。智勇に優れており、信長からその才を認められて摂津一国を与えられた。 しかし天正6年(1578年)、伊丹城にて突如、信長に対して反旗を翻す。これには今でも諸説があり、理由は明確にされていないが、石山本願寺 や足利義昭 と密かに通じていたためという説が有力である。 安土桃山時代 の武将 。茶道を極めた利休七哲 のひとり。


(下の写真は伊丹市立博物館蔵ー荒木村重。)
(信長との初対面時。なぜか饅頭を食べて口一杯頬ばっている絵)

  荒木村重が謀反を起こしたと言われる説には色々ありますが、織田軍が石山本願寺を囲んだ時に、村重の家臣が石山に兵糧を送っていたことを信長に知られたこと、別所氏と小寺氏が信長に反旗を翻したこと、そして丹波の八上城・波多野氏に味方して、丹波攻めが遅れた明智光秀の恨みをかったことなどが言われています。

 天正6年の秋頃から「村重謀叛」の噂が流れはじめ、弁明不能と判断した村重は、有岡城に篭もってその意志を明らかにした。織田信長は何度か有岡城の攻撃を行ったが、城の守りは固く持久戦になる。村重の決意にはいろいろな説があります。 

天正六年(1578)、信長四十六歳、秀吉四十四歳、黒田官兵衛三十三歳、そして村重は四十五歳。秀吉に従う黒田官兵衛・竹中半兵衛・高山右近は、赤松政範が守る上月城を落とし、尼子勝久と重臣・山中鹿之介を上月城に入れて毛利氏に備えていました。
 そして播磨の東では三木城・別所長治と御着城・小寺氏が離反したことから、信長は上月城を見捨てて三木城攻撃に集中するよう命令を下した年です。

黒田官兵衛の説得失敗と幽閉
黒田官兵衛(孝高)(1546~1604) -秀吉も一目おいた天下人の器
*参考図書:司馬遼太郎「播磨灘物語」、寺林峻「エピソードで読む黒田官兵衛」


黒田官兵衛のプロフィール
御父 黒田職隆  御母 小寺藤兵衛政職の養女
幼名 万吉 別名 如水(じょすい)
墓所 大徳寺竜光院(京都市北区)崇福寺(福岡県中央区)
法名 竜光如水円清
1546年(天文15) 11月29日、黒田職高の長嫡子として姫路で誕生。
1578年(天正6) 荒木村重の使者に捕らえられ伊丹城に幽閉。
1579年(天正7) 伊丹城から救出される。
1604年(慶長9)3月20日、山城国伏見で病死。享年59歳。
           遺言により福岡の教会で葬儀が営まれた。
     辞世の歌は、
      「おもいおく言の葉なくてついに行く 道は迷わじなるにまかせて」

 黒田官兵衛(如水)は、最初は播磨の守護赤松氏の一族である小寺氏に仕えていたが、早くから織田信長に属し、のち豊臣秀吉に仕えるようになる。秀吉の毛利氏攻撃の際には、信長に背いた荒木村重を説得にあたったが、逆に捕らえられ幽閉された。一年後に救出された後も秀吉に仕え、その信頼を得て、特に軍師として秀吉の天下統一に貢献した。晩年はその智謀を恐れた秀吉に疎んぜられる。 関ヶ原の戦いでは九州制圧を試みるが失敗。子・黒田長政の戦功により筑前国五十二万石を与えられる。キリシタンでもあり洗礼名をドン=シメオンと称した


 「黒田節」は禁酒の誓いを言い渡された母里太兵衛(黒田家の家臣)に、執拗に酒を勧める福島正則。太兵衛は固辞し続けるが、正則の舌鋒はしだいに激しくなり、黒田家中の罵倒まで出はじめる。これには太兵衛も我慢ならず、見事に酒を飲み干すのであった。福島正則が注いだ大杯の酒を見事飲み干し、名槍「日本号」を手に入れた。その姿を謡ったのが「黒田節」。幼いときより、官兵衛に仕え、関ヶ原後、1万8千石を得た。 先鋒大将として功を重ね、黒田八虎の一人と数えられる。
 
 村重が信長に謀反を起こしたとき、危機感を抱いた黒田官兵衛は単身で説得に赴く。もし村重が毛利方につけば、播磨は孤立してしまい、主家の小寺も毛利方についてしまう。だが冷静に考えれば、村重が簡単に了承するはずもなく、最悪殺される可能性までありました。官兵衛はそれを承知で伊丹城に乗り込み、案の定、村重に直訴できず幽閉されてしまうのです。
 信長は官兵衛が帰らぬことで裏切ったものと思い込みました。そして人質に取っていた官兵衛の息子、松寿丸を殺す様に秀吉に命令した。(松寿丸-後の黒田長政)は秀吉が長浜城で人質となっていた。 秀吉は官兵衛は裏切ような者ではないと思っていたが、それでも信長の命令には絶対服従しなければならないジレンマに陥っていました。

 そんな時、秀吉の軍師であった竹中半兵衛(半兵衛は官兵衛と親交を結ぶ中で、主君の信長よりも官兵衛を信じていたほど仲がよかった。)は自分から松寿丸の処分を買って出ると、松寿丸を弟の久作の城に隠し信長の前に出て、堂々と「処分しました。」とうそを言いました。なぜか信長も深く詮索せずにこの問題は済んでしまいました。
  信長は、村重を討つために安土城を出発、その途中で謀叛に加担した高槻城主・高山右近と茨木城主・中川清秀をを開城させ、この有岡城を大軍で囲みました。 これに対して村重は尼崎城、花隈城、能勢城、三田城、有馬城で応戦の中、毛利の援軍到着をひたすら待ちました。

 村重が織田軍のろう城に耐えている間、官兵衛は日も射さぬ狭い牢獄で、身体を動かすこともままならずに暮らすことになる。このためについには肉体的に不自由な状態になってしまう。

 牢獄には窓があり、そこからは藤の花が見えた。官兵衛にとってはそれだけが心の支えであり希望でもあったといわれています。

 司馬遼太郎の播磨灘物語の一節にも、「藤よ、藤よ花をつけよ。」と官兵衛が不自由な牢の中で自分の希望につなげる場面が出てきますが、その願い叶い有岡城落城の際に救出されて九死に一生を得た官兵衛は、藤の花を家紋とし、終生の教訓としています。
 
  牢の藤に紫の花房が咲いた天正七年の夏、なんと備前の宇喜多直家が毛利氏を裏切って秀吉についてしまいました。 美作から吉川元春、備中から小早川隆景が直家へ攻撃をかけていたのです。
 この有岡城は十ケ月の籠城にもかかわらず、頼みの毛利からの援護が来ない。次第に城内の動揺が広がっていきました。
  そして秋、天正7年9月村重は闇夜にまぎれて妻と子そして多くの家臣を残して、援軍を要請するために城をひそかに脱け出て尼崎城へと向かいました。
 一説には尼崎から海路毛利へ援軍を求めるためという説もあります。 城主がいなくなった有岡城は、城内から次々と裏切り者が出て、今のシティホテルあたりにあった「上臈塚砦」と呼ばれる砦が落ち、続いて外郭が占拠され、侍屋敷に火がかけられました。
  天正7年9月、ついに主郭が落ち一年有余の籠城が終わり、そして牢から官兵衛が見つかるのです。しかし官兵衛は10ヶ月近い入牢生活で衰弱し肉も落ち皮膚病もわずらり足腰が立たない状態で栗山善助に救出され戸板に乗せられて有馬の湯治場で体力の回復のため養生しました。
 有岡城が陥落し地下牢から散々な姿になりながらも、節を守り通した官兵衛の姿を見た信長は涙を流し、そして半兵衛が松寿丸を殺さずにいたことを、大いに喜んだと伝えられています。

 0月15日に伊丹城は総攻撃を受け落城。残された村重の家族・家臣は織田方に捕らえられ、ある者は磔のうえ槍で突かれ、またある者は古家に押し込められ、焼き殺されたのでした。
 信長の処罰は残酷で地獄絵さながらに凄惨を きわめました。まず女房衆122人が尼崎近くの七松に引き出され、或る者は磔刑となり、或る者は鉄砲で射殺され、また或る者は槍で刺殺されました。
 織田軍に囲まれて有岡城に帰ることができなかった村重は、城にいる妻に嘆きの歌を送り、妻も歌を返していたのです。絶世の美女と評判が高かったのですが、あるじ村重の救援もなく、六条河原で経帷子(きょうかたびら)と小袖をまとい、一族30余名とともに斬首されたのでした。
荒木村重の妻「たし」と娘が残したと言われる辞世の句です。


 
『消ゆる身は 惜しむべきにもなきものを 母の思ひぞさはりとはなる』

  「露の身の消え残りても何かせん 南無阿弥陀仏に助かりぞする」

  村重一族は全て惨殺されたのですが、 ひそかに乳母に抱かれて脱出した村重の二歳の末子は、のち浮世絵の元祖ともいわれた巨匠、「岩佐又兵衛」です。

岩佐 又兵衛(1578~1650)

 
江戸初期の異色の絵師・岩佐又兵衛。劇的なタッチに人間臭さが同居する独自の画風は、浮世絵の祖との声も高い。 又兵衛の父、伊丹城主・荒木村重は主君・織田信長に背いたため、一家は斬殺。当時2歳の又兵衛は落城間際に救出された。後に母方の姓岩佐を名乗り、絵画の素養で生計を立ててゆく。40歳の頃には興宗寺住職心願との交流から北庄に移住。20余年の福井時代に『旧金谷屏風』などを制作、独自の作風を生み出した。
 寛永14年(1637)、将軍家の調度品制作に指名され江戸へ。福井に戻ることなく没した。子の勝重も福井藩の御用絵師として活躍している。ちなみに興宗寺境内に彼の墓がある。

国学院大学法学部横山ゼミのページ(参考)ー岩佐又兵衛について(クリック)

(有岡城発掘調査で出土の輸入陶磁器
 
その後、謀反の張本人である村重を世の人は「一族を見殺しにした男」「裏切り者」と蔑んだ。そして村重自らも「道糞」と名乗り、自分自身を貶めました。 
 
 有岡城遺跡から高級な陶器の出土が発見されるように村重は茶をたしなみ陶器の蒐集家でもあったと言われています。
  そんな謀叛の経緯を知る秀吉は「道薫」と名を改めさせ、村重に捨扶持を与えました。 村重の晩年、そして秀吉政権下で茶人として利休七哲の一人に名を連らねています。


 
有岡城は池田恒興に与えられ、再び「伊丹城」と呼ばれるようになった。天正10年(1582)の本能寺の変の後は秀吉直轄領となって、伊丹城は廃されました。
 その後寛文元年(1661)に伊丹郷町の10ヶ村が近衛家の領地(天領)となり以後は近衛家の積極的な保護や威光を受け清酒づくりが盛んとなった。伊丹で造られた酒は「近衛殿御家領摂州川辺郡伊丹郷」の旗印をかざして江戸に京都に天下を闊歩した。近衛家と伊丹の関係は清酒販路という経済面だけでなく公家文化が文学、茶道などの文化面でも大きな影響を与えました。

荒木村重の謀反の謎
 
我が町伊丹市に縁のある武将荒木村重の評価はやはり城主村重の落城時の行動が問題とされています。
 他の武将の場合、最後は家来や領民の安全を条件に切腹など自害するのが常でありますが、村重の場合は何度も説明するように卑怯にも妻子や家来を残して自分一人が生き延び、残酷にも残された家来や妻子は見せしめのため全員処刑されたことがあげられます。
 しかし切腹による責任の取り方は、当時の武士道としては非常に一般的なことですが、彼の性格や人間性から推測してその行動には数々の疑問点があります。
 私の単なる個人的な思いこみになりますが、村重は最後までおそらく毛利の援軍を心から信頼し、またこれまでの戦いの経験から比叡山延暦寺の焼き討ちなど信長の残忍さを充分周知していたからこそ自分だけ逃げるという利己的な理由からではなく、なんとかこの難局を打破するために窮した最終手段で、自ら城を出るという本来指揮にあたるべき城主たるものが絶対にしてはならない行動を、あえて止むを得ない理由により苦悩した後の行動で、彼の責任感や優しさから戦いを有利に展開するために援軍を求める行動に出たものと思いたい。
 伝えられる史実を別の見方をすれば以下のことが「謀反の謎」として疑問が残ります。伊丹にゆかり深い武将として彼の真意はどこにあったのか知りたいものです。

 
1.
信長の家臣として軍功を高く評価され摂津の国を治める摂津守にまで
 出世しました。
 その村重がなぜ謀反を起こす必要がどこにあったのか。一説には毛利
 の陰謀説もあります。
2.謀反の噂が起こってから信長に信頼の厚い村重がなぜあえて直接対
 決の回避努力や弁明、反論をせずに城に篭って信長と対決するように
 なったのか。
3.彼の人間性は残忍なものではなくキリシタン大名の高山右近の人質も
 無条件に解放している。それなのになぜ妻や家臣を残して逃亡した行為
 は理解できない。
4.説得に来た黒田官兵衛をなぜその場で殺さなかったのか。また官兵衛
 の説得をどれだけ真剣に聞いたのか。
5.その後、茶人として秀吉に「道薫」と改名され利休七哲に名を連ねてい
 ること。秀吉はいかに下克上の時代といえども謀反を起こした者を厳罰
 せずに、あまりにも寛大な処遇をしている。彼の人間性の評価は高いも
 のと思われる。
6.一説には明智光秀が村重の出世をねたんで信長に讒言(ざんげん)し、
 それで信長が怒り、村重はやむなく反逆した。また信長の残忍ややり方
 についていけなかった。とのことであるがそんな理由で謀反をおこしたと
 は考えにくい。


追記  亡説打ち消す書状発見!

 
平成16年11月20日付産経新聞の記事で伊丹市立博物館所蔵の資料から荒木村重が武田四郎次郎らにあてた書状を発見。

 その内容は、篭城後、信長軍の侵攻でひそかに尼崎城へ移った村重は武田四郎次郎など懇意の武将などに
援軍を要請する内容の書状。
 「一刻もはやく待ち申し候。」などその内容は、援軍を得て反撃をうかがう心情がつづられている。との内容の記事が紹介されており、村重は逃亡のためではなく反撃の機会を狙っていたことが確実であり、汚名返上の貴重な資料である。 

 このような資料がもっと早い時期に公表されていたなら村重の評価も「妻子を犠牲にして自分だけ逃亡し生き延びた。」という内容からずいぶん変わったものになっていたと思われます。なにはともあれ、伊丹市民としては嬉しい限りです。

(新聞記事をクリックすれば拡大表示します。)


追記2 姫路市青山地区の住民グループ「青山如水会」

 郷土にゆかりの深い人物を顕彰するために姫路市青山 地区の住民グループ「青山如水会」などが、地元の古戦場跡に官兵衛ゆかりのフジを植えた。
 古戦場跡は一五六九(永禄十二)年、官兵衛が初めて軍勢を率いて、龍野城(現たつの市)の城主赤松政秀の軍勢を破ったとされる地。今は大半がゴルフ場になっているが、近くに立つ石碑のみが歴史を今に伝える。 官兵衛が有岡城の牢(ろう)から見えるフジの生命力に励まされ、後に、フジを黒田家の家紋にしたことにちなんで青山如水会は昨年結成され、官兵衛の“初陣の地”にゆかりのフジを植えようと計画し、地元の青山史蹟保存協会が協力。このほど、両会のメンバー五人が地元の造園業者とともに、石碑のそばに高さ約二・五メートルのフジの苗木二本を植えた。
 

 
神戸新聞WEB版より 2007/06/20 より。
http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000399667.shtml
 
有岡城のどのあたりに官兵衛が幽閉されていた牢があったのか定かではないですが、(一説によるとアイホールあたりとの説あり。)荒木村重よりもどちらかと言えば卓越した軍師として評価されている人気のある黒田如水について、伊丹でも往時を偲んでその史実に思いを馳せる藤棚か必要かもしれません。

  


H25..10.31 追記

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」           姫路官兵衛プロジェクト公式ホームページ

 いたみ官兵衛プロジェクト情報交流サイト   官兵衛・村重/伊丹市観光物産協会(Facebook)

 
*いたみ官兵衛プロジェクトページ(リンク)

  姫路のひろば「姫路から天下に翔けた男、稀代の軍師 黒田 官兵衛(後編)」
    おなじみの講談師旭堂小南稜さんの絶妙な語りがよくわかります。
  
     
  
姫路のひろば「姫路から天下に翔けた男、稀代の軍師 黒田 官兵衛(後編)」

  
姫路のひろば「黒田官兵衛ゆかりの地を歩く」(前編)(リンク)

H26.5.4 追記
 
*伊丹市教育委員会生涯学習部社会教育課発行「有岡城と荒木村重」

  有岡城の地図や伊丹郷町マップなど参考資料のパンフです。
      クリック(PDFファイル)

 NHKオンライン神戸放送局
 
     ・ひょうご 官兵衛を訪ねて。「有岡城」(リンク)