伊丹再発見シリーズ鉄道唱歌ー 
 鉄道唱歌伊丹が詠われています。 

 鉄道唱歌を調べていて気がついたのですが、何と東海道編(第1集)は
67番まであるのですがその61番目に伊丹市が出てきます。

 

 JRを利用すれば車内放送などで流れる曲で皆さんおなじみのあの曲
鉄道唱歌は世界一長い歌詞といわれています。
 今や世界に誇る「新幹線」とともに世界一の鉄道王国となったわが国に始めて鉄道と名のつくものが入ってきたのは江戸時代末期。最初は大型の鉄道模型みたいなものが蒸気機関車として紹介されました。

 しかし明治5年(1872)10月14日には「汽笛一聲新橋を はや我汽車は離れたり。。」と鉄道唱歌に歌われているように新橋(今の汐留)横浜(今の桜木町)間にわが国初の鉄道が開業しました。
 当時は蒸気機関車はおろか線路などの設備さえも英国製でした。続く明治22年には新橋~神戸間が開通し、以降、日本の鉄道は大きく発展をしていきます。
 
 鉄道唱歌は「地理教育鐵道唱歌」として明治33年に三木書店より第1集が出版され、大和田氏の詞に上 眞行氏と多 梅稚氏の2つの曲が付けられていました。
 第一集東海道編は67番まで続きます。以来山陽線と続いて全五集334番までが同年中に世に出され大ベストセラーとなったそうです。その内容は沿線地域の特徴や名所旧跡を取り入れ全国津々浦々の名所、旧跡、名産物を七五、七五の名文で詠み込んだ壮大な内容です。 ちなみに日本語で詩や歌を作るには、音数律といって、音の数で韻律を組み立てます。
 それには五七調とか七五調といって、五音と七音でまとめるのが一番具合がいいのです。五七五なら俳句・川柳だし、五七五七七なら和歌です。民謡は大部分が七七七五になります。

 
 鉄道の線路が、日本全土に広がって近代国家へと突き進んで行きました。蒸気機関車の力強い姿は、その象徴であったことでしょう。文明開化とともに狭い国土に築かれてきた日本の鉄道網はすばらしいものがあります。
 鉄道が町を興し産業の発展を担った時代から今では鉄道に替わり高速道路網や航空路線へと輸送手段の中心が移っても、いつも鉄道の旅は人々の心をとらえ旅愁を誘うものがあり、やはり旅といえば列車のイメージが似合います。


 
 大和田建樹 作歌
 東京音樂學校講師 上 眞行作曲
 大阪師範學校敎諭 多 梅稚作曲
 第1集 東 海 道
  
61番 神崎よりはのりかへて  ゆあみにのぼる有馬山
       池田伊丹と名にきゝし  酒の産地もとほるなり
 
 
作詞者 大和田 建樹( オオワダ タケキ) 1857~1910 国文学者歌人・詩人 宇和島丸之内生まれ。多数の和歌、国文学、唱歌等の著作を発表し、なかでも『地理教育・鉄道唱歌』は全国的に歌われた。 新橋に歌碑があります。
 歌詞の中に出てくる「ゆあみ【湯浴み】」は、広辞苑に「湯に入って身体を温め、また洗うこと。」となっています。なつかしい童謡「我は海の子」
の歌詞2番の中にも出てきます。

「生れて塩に ゆあみして、浪を子守の 歌と聞き、千里寄せくる 海の気を 吸いてわらべと なりにけり。」
となっています。

 1874年(明治7年)には、官設鉄道が大阪・神戸間に開通し,現JR尼崎駅である神崎ステーションも開設されました。続いて1891年には尼崎・伊丹間を結ぶ川辺馬車鉄道が開通し,のちに摂津鉄道・阪鶴鉄道を経て、福知山線・現在のJR福知山(宝塚線)となりました。
 当時から我が伊丹市がすでに
「池田伊丹と名に聞きし」ほど酒の産地
として全国に知られていたのでしょう。


  
*鉄道唱歌 東海道編 part3(44山科-神戸間)  6’:40”から伊丹
          57大阪 58安治川口 59天王寺 60尼崎 61伊丹 62神戸
  (なぜか東海道線が大阪から安治川口-天王寺-尼崎-伊丹ー神戸の順になるのがよくわか
   りません。今ならユニバーサルスタジオUSJがあるのでとこじつける理由がありますが、大阪城
   東鉄道、西成鉄道について調べてみる必要があります。(^_^))


        
  
  (参考) 鉄道唱歌 東海道編Part1(新橋-焼津)
          鉄道唱歌 東海道編Part2
(島田-大津)


 鉄道唱歌は駅ごとに特徴的な地理や歴史など、短い歌詞の中で表現されており、聞いているだけで青春18キップでのんびりと旅をしたようなロマンがあります。

 追記:JR福知山線はむしろ2005年4月に発生した痛ましい脱線事故で全国に知られることになりました。
 脱線事故は、2005年(平成17年)4月25日に西日本旅客鉄道(JR西日本)の福知山線(JR宝塚線)塚口駅 - 尼崎駅間の曲線で発生した列車脱線事故で運転士と乗客を合わせて107名が死亡しました。午前9時19分ごろ、先頭の2両が線路脇のマンション(エフュージョン尼崎)に激突し(塚口駅の南約1km、尼崎駅の手前約1.4km地点)た事故列車は、宝塚発JR東西線経由片町線(学研都市線)同志社前行きの上り快速列車です。
列車は、直前の停車駅である伊丹駅で所定の停車位置を超過(オーバーラン)しました。これについて、事故が起きる前に運転士が車掌に対してオーバーランの距離を短くするように打診して、車掌が新大阪総合指令所(現在の大阪総合指令所)に対して約70mのオーバーランを8mと報告し、JR西日本も当初車掌の証言通り8mのオーバーランと発表していました。
 このことから、事故後に他の路線や鉄道会社において発生した列車のオーバーランや過密ダイヤについても大きくクローズアップされた事故となりました。


伊丹市立博物館での阪鶴鉄道紹介(写真をクリックすれば拡大表示します。)
展示品(レール)の解説他 使用された米国製機関車 展示ブースの様子

機関車を知った幕末の日本
 
機関車を知った幕末の日本1854年(嘉永7)には、アメリカの使節ペリー(クリック)再来航し、献上した縮尺1/4の鉄道模型の運転が横浜で行われた。人々は、模型とはいえ初めて目にする蒸気機関車に少々脅えながら、蒸気を上げて猛進する姿を固唾をのんで見守った。 そんな、カルチャーショックを受けた日本人の様子をペリーは「見るも笑止の図であった」と嘲笑ぎみに伝えている。
 その翌年、佐賀藩が鉄道模型を作った。さらに、海外で鉄道に乗車した使節団の「蒸気車は飛ぶ鳥のごとく」という報告が幕府の役人を刺激した。機関車への接触を急速に深めながら、幕府は鉄道の建設計画を具体的に進めはじめるが、維新の混乱によって中断。計画は明治政府に受け継がれた。


修理作業から製造技術を習得
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874年(明治7)、京浜間に次いで大阪~神戸間にも待望の蒸気機関車が走りはじめた。当初、阪神間に在籍した機関車は12台で、それらはイギリスからの輸入車両だった。日本には鉄道車両を製造する工業的な基盤がなく、すべてを発注せざるを得なかったのだ。
 イギリスから輸入した車両はメーカーごとに規格や形状がまちまちだったため、日本に着いてから改造や修理を行う必要があった。そのための工場が神戸と新橋に設けられ、作業には英国人技師とともに日本人も参加した。日本人職員は車両の改造・修理作業を見様見まねで行いながら、慣れない金属部品の扱いや機関車の複雑なメカニズムを熱心に学び取った。

 そのような先進技術の模倣をはじめ、サンプル車両を購入し、解体して同じものを作りあげるという方法は、その後の日本の技術導入の様式として、車両製造だけでなくさまざまな分野で定着することになる。

 神戸で誕生した国産第1号機関車
 
車両の組立や修理作業で身に付けた知識を結集させて、日本人の手による蒸気機関車第1号を完成させたのは、阪神間の鉄道開通から18年後の1893年(明治26)のこと。官鉄神戸工場だった。
 設計と指導にあたったのはイギリス人技師のトレビシック。蒸気機関車の発明者リチャード・トレビシックの孫である。それ以外の工作スタッフは全員日本人だった。鋼鉄製の台枠などはイギリスからの輸入品を使いながらも、シリンダーや軸箱などほとんどの部品を自前の工作機械で製作。試行錯誤の末、9カ月ほどの期間を費やしてようやく1台の国産蒸気機関車を完成させた。
 この国産機関車第1号は誕生した地に近い京都~神戸間で実験的に運用された後、1918年(大正7)樺太鉄道に譲渡。10年程使用され、そこで廃車になった。
 その後も蒸気機関車の輸入はつづくが、製鋼・機械工業の技術革新が進み、工業的な基盤が整った大正時代に入ると車両製造も軌道に乗りはじめ、まもなく、すべての蒸気機関車を国内で製造するようになった。
(以上の記述はJR西日本ブルーシグナルのページより引用。)