ウズベキスタンの桜とシベリア捕虜
 
  昨年10月に安部首相は積極的な外交活動としてモンゴル、中央アジア5ヶ国の訪問をされました。

 この内容の記事が安倍首相のフェイス・ブックに掲載されておりました。この地域はシルクロードの通過地域として知られている程度ですが、つい最近までソビエト連邦のひとつでした。
 
 特にウズベキスタンに関連して私は以前に読んだことのあるブロッグの記事を思い出して、関心があったので、フェイスブックの安倍首相の記事にコメントをしたところ、なんと私のブロッグ紹介のコメントに対して500人のアクセスがあり驚きました。

 こんなに多くの方からコメントをいただいたのは初めてであり、大いに感動しました。
 私が書き込んだ内容は多くの日本人のシベリア抑留捕虜がシベリアからソ連の各地に移送されソ連のインフラ整備のためにに強制労働させられたこと。
 そして、中央アジアの国々(当時はソ連邦)にも送られウズベキスタン国の首都タシケントでは2万5千人が公共施設の建設などに従事させられて813名の日本人がこの地で亡くなっています。

 今回安倍首相がその墓地に墓参されました。
 とりわけウズベキスタンはこの地で日本人捕虜により築造された立派なナポイ劇場があり今も現地では当時の日本人の働きが評価されている親日国です。
 
 現地のウズベキスタンの人々を感動させたのは、
「戦いに敗れても日本人は、誇りを失うことなく骨身惜しまず働いて立派な仕事を残した。
 ウズベキスタンの母親は「子供に日本人捕虜のようになりなさい」人が見ていなくても手抜きをせずにまじめに仕事をする。すばらしい民族だ。」との言い伝えがあります。

 食料事情が悪く栄養失調で亡くなる者が出る過酷な状況であっても誇りをもって作業を続ける日本人の姿に現地の人々は捕虜なのにどうしてあそこまで丁寧に仕事をするのか、まじめに働くのか不思議がったといわれています。 

 とくに国立ナポイ劇場はいまやウズベキスタン人の誇りになっています。
 戦後二度の大地震が当地を襲ったのですが、この劇場は崩壊することなく残り避難場所になりました。 平成8年ソ連邦が崩壊しウズベキスタンは独立。ナポイ劇場に日本人抑留者の功績を記したプレートを掲げています。 (左の安倍首相のフェイスブック記事、クリック拡大表示)
   *紹介した参考ブロッグ(くればのひとり語り)

 劇場にはウズベク語、日本語、英語で「1945年から1946年にかけて極東から強制移住させられた数百名の日本人がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」と書かれています。
 

 今回安部首相が訪問して顕花した日本人墓地は旧ソ連時代には日本人の墓地など作ってはならない、墓はあばいて遺体は捨てろという命令があったのだそうです。
 
それでもウズベクの人たちはひっそりと日本人の墓を護りぬいてくれた。それは日本人が作ってくれた建物や発電所などが今でもウズベクの人々の生活を支えてくれていることへのせめてもの恩返しでした。

   この地に全権特命大使として赴任された中山恭子大使の「ウズベキスタンの桜」に詳しく紹介されています。
 中山大使の夫・中山成彬元国土交通大臣は日本人墓地の整備に募金を呼びかけ元抑留者や応援者に声がけして、寄付金を募りました。そして中山夫妻はウズベキスタン政府に墓の整備をん申し出ます。すると大統領はこれを拒否しました。

 その理由は「亡くなられた日本人に、私たちは心から感謝しているのです。このお金は受け取れません。私たちで日本人のお墓を整備させてください。」との申し出がありました。

 そしてウズベクの人々は日本人墓地を美しい公園墓地にし、日本人を顕彰しました。
 中山夫妻は集めた寄付金をそれならウズベクの学校に教育機材の資金としてパソコンや教材を買い揃えて寄贈しました。
 さらに残った資金で日本人墓地と中央公園に桜の木を贈ろうという話があり、きっと生きて祖国に帰りたかったであろう人たちに、せめて日本の桜を毎年見させてあげたいというという想いから、中山成彬氏は日本さくらの会に交渉し、桜を贈ることとなりました。
 ところが桜の木は弱酸性の土でないと育ちません。現地の土はアルカリ性です。そこで日本から弱酸性の土もいっしょに運ぶこととなりました。今では日本から贈られた1900本の桜の木が毎年美しい花をl咲かせています。
 ウズベキスタン政府はいまも専門のさくら番を雇って桜の木を保護しています。
 
    
      国旗の重み〜ウズベキスタンのナヴォイ劇場(Youtube9'40'')

  以下のページは「ウズベキスタンの桜」(中山恭子)より引用しました。(クリック拡大表示)
       
 
 極寒のシベリアから移送させられ異国の地でこのような立派な仕事をされて日本人の評価を高めていただいた事に大いに感動します。
 このような歴史的な話には史実とは大きく異なった想いや願望が通説としてどうしても入るものです。
 実際こんな立派な劇場を当時は建設重機や現在のような運搬道具などもない状況で皆さんが実際に従事された作業はどの程度だったのか実際はどうだったのか気になるところです。
 ウズベキスタン・サマルカンド国立外国語大学教授の胡口靖夫氏の「シルクロードの青の都に暮らす」−サマルカンド随想録に、この国の歴史や文化はじめこのナポイ劇場の建設についても当時の日本人捕虜がどの程度築造に関与したのか調査されています。
 結論からいえば劇場はすでに本体工事はほぼ終わっており事実として日本人捕虜は内外装工事に1945年から47年までの2年間従事したとのことである。それでも異国の地での厳しい環境や飢餓と戦いながらやりとげたことは賞賛すべきである。

 単行本「対日工作の回想」加藤昭(監修)で日本でのKGBスパイだったイワン・コワレンコの回想録に彼の日本人観として、日本人の特色が紹介されています。日本人はソ連の上層部からみると都合のいい特色があったという回顧録である。
 日本人の特色(イワン・コワレンコKGBの日本人観)
   @集団主義の国民、勤勉な国民。
   A日本人は約束すれば、それを実現するために遂行する。文化的にも高いが、権力
    には弱い。
   Bこの国民性は収容所での日本人管理に役立った。日本人はまず論争を一切しない。
    命令には「はい、そうですか」との返事以外は聞いたことがない。
   C「日本人は強く出れば、引き下がる」という。
 
 ゲルマン民族のドイツ人は、こんな日本人のように素直にソ連の管理には従わなかったという。
 
  祖国に帰れなかった日本人抑留者のために、桜の寄贈を呼びかけこれに応じてくださった心優しい日本人。そしてその心を大切に1年365日桜守を雇って桜を保護してくれるウズベキスタンの人々。 本当の外交は虚偽の捏造や建前でなく、このような人と人との真心のつながりこそが真の友好を築いていくものです。

 今回フェイスブックの書込みから 多くの方からコメントをいただく中でわが国の捕虜収容所であった捕虜との交流の物語など紹介します。

 ・三重県南牟婁郡紀北町で、英国軍人捕虜が紀州鉱山の捕虜収容所での住民との交流。

 ・以前から知っていたバルトの楽園の映画でも紹介された日本で最初にベートーベン「第九」が演奏されたドイツ兵捕虜・徳島県板東捕虜収容所