ぺりー来航150周年と日米関係について思うこと 
  
 今年2003年4月にワシントンの里帰り桜が伊丹へ贈られて来た機会にネット上で色々と関連ページを探していて偶然に今年(2003年)が150年になることを知りました。 
 ペリーの来航に関してはすでにネット上で多くの解説や歴史背景などが紹介されております。今回はそれらのページを参考にペリー来航により我国が鎖国から開国へ日米和親条約によりその国家指針を変へざるを得なかったと同様に、いままさにイラク戦争がはじまりアメリカの圧倒的な軍事力を見せ付けられすでに戦争終結宣言が行なわれる中で、北朝鮮の拉致問題などいまこそ戦後の安保体制やタブーとされてきた防衛政策の根本的な見直しがせまられているのではないでしょうか。

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     * はじめに
       歴史の経緯
     2.米国の開国要求の目的
     3.日本側の対応
     4.日米和親条約(神奈川条約
     5.その後の日米関係
     6.歴史は繰り返すー私の思うこと

        7.イラク戦争の終結
        8.開国から明治時代年表
       9.Youtube「日露戦争」「大日本帝国の最期」
   
・はじめに
  2003年は1853年に浦賀にベリー提督率いる米国黒船艦隊が現れて150周年にあたります。そして日米間でも様々な記念事業(日米協会のページ参照。)が計画され下田市でも5月17〜19日には恒例の黒船祭が予定されています。
 日本の近代化の幕開けとなったペリーの来航は、日本が徳川200年の鎖国政策により我国は幸いにも当時の大航海時代の残酷な世界システムから影響を受けずに現在から見れば封建的な時代ではありました。しかし独自の文化を築き上げ、自然災害や飢饉もありましたが、戦争もなく平和な時代が続いていました。そしてこの事件を契機として日本はやむなく開国を迫られ弱肉強食の世界システムに組み込まれ世界の列強と対峙していく運命となりました。


 鎖国時代には、国外の外の世界との交流は限られたもので司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」に登場する高田屋嘉兵衛の話や漂流民のジョン万次郎、このサイトでも紹介している三吉の物語、そして逆に日本に興味をもって好奇心から利尻島にみずから漂着した米国人ラナルド・マクドナルドの物語。彼は松前藩に捕らえられ長崎送りとなり幽閉されました。そこで当時の幕府のオランダ語通詞に英語を教えました。その生徒の一人森山栄之助はペリー来航時の通訳として後に大活躍しました。このように鎖国下であってごく少数の者だけが例外的に外の世界と関係をもっていた程度です。

 当時はもちろん長崎出島でのオランダ・中国との交易がありましたが、近代国家との外交問題としてはこのぺりーによる日米関係が始まりではないかと思います。
 21世紀に入っても世界は9.11の米国ニューヨークでの衝撃的なテロで始まりアフガニスタンやイラクでの戦争、そして北朝鮮の拉致問題など冷戦時代よりもさらに複雑な国際情勢で、米国一辺倒の外交施策が許されてきた時代から、今後はさらに世界から日本独自の外交政策や役割を明確にしていくことが問われています。
 関係のない話題でテーマがそれてしまいましたが、ペリー来航150周年の年にあたり我国にとって大切な今後の日米関係について考える機会となりました。

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1.歴史の経緯

 史実によると嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官 M.C.ペリー提督は、フィルモア大統領から対日交渉の全権を与えられ、 最新鋭の2隻の蒸気船サスケハナ号とミシシッピー号、それに2隻の帆船 プリマス号とサラトガ号を率いて浦賀沖に来航しました。ぺリー提督は始終、携えてきた大統領の親書を「直接日本最高の役人に手渡す。」ことを主張しました。
、ペリー提督は長崎を避けてあえて江戸へ向かい幕府高官との交渉を目的に現れました。
 そして幕府はついに六月九日(7月14日)、久里浜海岸に設けられた急ごしらえの応接所で親書の受取りに応じました。鎖国政策を押し通そうとした幕府もついに長い間の鎖国政策を転換し て翌嘉永7年3月3日(1854年3月31日)再び来航したペリー提督との間で「日米和親条約(神奈川条約)」を結び、下田、函館の2港を開港しま した。これにより鎖国政策が終わりを告げ、我国の近代日本への幕開けとなる事件となりました。



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2.米国の開国要求の目的

  1846年、ペリー来航のわずか7年前に米国はメキシコからカリフォルニアを奪い、そこから太平洋を横断してシナと結ぶ新しい貿易航路が開かれた。当時新たに発明された蒸気船では、日本で石炭の積み込む必要があった。さらに太平洋における捕鯨業が発達し、日本の港湾を使いう必要が出てきたこと。米国の要求はこのような平和的なものであったが、米国の領土拡大政策であるManifest Destinyマニフェストデステニーの哲学そのもので、実際にペリーは、浦賀に姿を現す前に、那覇港に侵入して、琉球政府に対し対江戸幕府と同様の強硬な要求を行い、強引に王宮に押し入ることまでしている。

 交渉にあたって、ペリーは日本側に「日本も鎖国の国法をたてに防戦するがよい。戦争になれば、勝つのは必ず我等である。日本は敗けるので、そのときに降伏を乞いたければ、このたび贈っておいた「白旗」を押立てるがよろしい。そうしたら、アメリカは砲撃をやめ、軍艦を退かせて、「和睦」することにしよう。」といった調子で、砲艦外交そのものであり、「日本政府に恩恵として希願するのではなく、権利として要求する」というペリーの方針は、要求が聞き入れられなければ武力で決着をつける、という欧米諸国の弱肉強食のルールに則ったものであった。

  ペリーが翌年1月25日、第2回の来航を前に海軍長官あてに送った手紙の一節には、「日本政府が協議を拒否し、もしくは我が商船、捕鯨船のため港湾を割り当てることを承知しない場合は、米国市民に与えた侮辱と損害との報償として、予は日本帝国の属領である琉球を、米国国旗の監視の下におく。」という意見をしている。

、さらに10月には母島群島占領のため軍艦プリマス号を派遣した。プリマス号のケリー艦長は台風シーズンの過ぎた10月下旬、小笠原諸島の母島に上陸し、以下のような宣言文(「ペリー宣言」とも呼ばれる)を掲げた。
This Southern group of Islands has been explored & taken Possession of by commander John Kelly & officers of the U.S.SHIP Plymouth under orders from commodore M.C.Perry on BEHAL of THE U.S.of N.A. This 30 Day OctoBer 1853.

  しかし翌年、日米和親条約締結により米国船は日本本土で補給を受けられるようになったため、小笠原を基地化する必要性は薄れ、貯炭場設置計画も中止となった。
 一方、同じ頃イギリス政府も小笠原の領有権を主張し、日本来航の帰途、香港に寄港したペリーに対し、小笠原群島は日本より先にイギリスが領有しているとの見解を伝えた。ペリーは1853年12月、これを批判する書簡をもって回答し、また小笠原の港湾は1国のみでなく、各国に対する避難所・休養所として開港されるべきと主張した。

 アメリカ・イギリスがお互いに牽制しあったことから、小笠原は欧米の植民地にされることから免れた。その後もいくつかの紆余曲折を経て、明治9年(1876)、小笠原は正式に日本領となり、各国もこれを承認した。この時代はまだまだ大航海時代にスペインやポルトガルが南米大陸をつぎつぎに植民地化していたのと同様に、今では考えられないことですが、
発見すなわち所有(領土占領)を意味することがあたりまえの時代でした。


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3.日本側の対応
 鎖国下あったといえ日本でも、すでに当時の世界情勢や欧米諸国の技術力、軍事力について最新の情報を得ていたようです。中国でのアヘン戦争の結末も承知しておりました。 
 したがって、もし米国の強硬な要求を突きつけられて拒否すればどうなるかということもわかっていたので、当時の政府として考えられていたのは、わが国の内海へ入り込み、空砲を打鳴らすばかりか、(国際法違反の)他国の領海の測量などしている。その驕傲無礼なること、言語道断であり、開闢以来の「国恥」ともいうべき事件であるが、打ち払いをすれば、戦争になり、たとえ勝って黒船を浦賀から追い払っても、伊豆の島々、八丈島等を勝手に占領するであろうし、さらに日本周辺の島々を勝手に奪うのは、当然予想できることであった。
 
 ペリーの野望は日本側に正確に認識されていたのである。こうした考えから、幕府は「一時の権策(応急処置)」として、国書を受け取ることにした。 そして翌年来日した際についに日米和親条約を締結することになりました。

  日米和親条約は正式名称を日本国米利堅合衆国和親条約、Treaty of peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japanといいます。
その内容は、
 
第一条に日本語では、「日本と合衆国とは其人民永世不朽の和親を取結び場所人柄の差別無之事」、また英語での表現は、
”There shall be a perfect, permanent, and universal peace and a sincere and cordial amity between the United States of America on the one part, and the Empire of Japan on the other part, and between their people respectively, without exception of persons or places”
 (いずれも『大日本古文書幕末外国文書之五』を参照)
 
 その他の条文は下記の通りで、特にたいした内容でもなく開国による取り決めが主たる内容でした。その後引き続いて日米間には修好条約が結ばれ通商問題に重点がおかれています。

 和親とは裏腹な不平等条約でありますが、ペリ−の来航によって,日本の鎖国政策は大きく揺らぎました。幕府は開国を迫られて混乱し,結局,安政元(1854)年の日米和親条約で開国にふみきり世界の荒波に入ることになりました。
 この条約は,神奈川条約ともいい,全12条からなる。第2条で下田,箱館の開港を認め鎖国を終了させました。また,アメリカに最恵国待遇を一方的に認めたものでした。
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4.日米和親条約(神奈川条約)
■ 日米和親条約
第一ヶ条  一、日本国と合衆国とは其の人民永世不朽の和親を取り結び場所人柄の差別之無き事
第二ヶ条 一、伊豆下田、蝦夷地箱館の両港は日本政府に於いて、亜墨利加船薪水食料欠乏の品を日本人にて調べ候丈は給し候為め渡来の儀差し免し候、尤(もっと)も下田港は約定書面調印の上即時相開き、箱舘は来年三月より相始め候事
第三ヶ条  一、合衆国の船日本海浜漂着の時扶助致し其の漂民を下田又は箱舘に護送し、本国の者受け取るべく申し所持の品物も同様に致すべく候。尤も漂民諸雑費は両国互いに同様の事故償うに及ばず候事
第四ヶ条  一、漂着或いは渡来の人民取り扱いの儀は他国同様緩優に有り、これ閉籠候儀致すまじくながら併せて正直の法度には服従致し候事
第五ヶ条 一、合衆国の漂民其の他の者共当分下田箱舘逗留中、長崎に於いて唐和蘭(オランダ)人同様閉籠窮屈の取り扱い之無く、下田港内の小島周り凡そ八里の内は勝手に徘徊致し箱舘港の儀は追って取り極め候事
第六ヶ条 一、必要の品物其の外相叶うべき事は双方談判の上取り極め候事
第七ヶ条 一、合衆国の船右両港に渡来の時金銀銭並びに品物を以って入用の品相調べ候を差し免し候。尤も日本政府の規定に相従い申すべく且つ合衆国の船より差し出し候品物を日本人好まずして差し返し候時は受け取り申すべき事
第八ヶ条 一、薪水食料並びに欠乏の品求むる時には其の地の役人にて取り扱いすべく私に取り扱いすべからざる事
第九ヶ条  一、日本政府外国人へ当節亜墨利加人へ差し許さず候廉(かど)相許し候節は亜墨利加人へも同様差し許し申すべく右に付き談判猶余り致さず候事
第十ヶ条  一、合衆国の船若し難風に逢わざる時は下田箱舘両港の外猥(みだ)りに渡来致さず候事
第十一カ条 一、両国政府に於いて拠り無き事有りの候時は模様に寄り合衆国官吏の者下田に差し置き候儀も之有るべし。尤も約定調印より十八箇月後に之無き候ては其の儀及ばず候事
第十二ヶ条 一、今般の約定相定め候上は両国の者堅く相守り申すべし。尤も合衆国に於いて長公会大臣と評議一定の後書を日本大君に致し此事今よりあと十八箇月を過ぎずして君主許容の約定取り換せ候事
右の条、日本国亜墨利加両国の全権調印せしむるものなり

嘉永七年 三月 三日    
1854年3月30
日    
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5.その後の日米関係
 開国にともない諸外国からの影響を受け、幕末の動乱期を経て明治維新へと続きました。この間に国内で対立していた勢力もありましたが、フランス革命などで累々たる犠牲の上に近代化を達成したフランスやその他の諸外国と比べて、我国の状況は諸外国に比べて特に悲惨な内戦状態にもならず国内的には戊辰戦争などで薩長連合と幕府側が対立し混乱する中にあっても無意味な争いを避け江戸城の無血開城が出来たことは、そこには共に国の将来を思うという共通のナショナリズムがあり近代化へうまく繋がったものと思います。

 その後のわが国は文明開化といわれますが諸外国の知識を取り入れ急速に国力をつけやがて日清戦争、日露戦争へと進み富国強兵政策を推し進め植民地にならずに列強の仲間入りを果たしました。
 この間日米関係はポーツマス条約の頃の親日的な状況から一変して米国での日本人移民排斥問題や経済不況などの時代を経て日米間の衝突が避けれらない状況になってきました。
 一説によると人種的な偏見もありますが、日露戦争で取得した満州の鉄道権益を米国が停戦仲介したにもかかららず参入を拒否したことが原因と言われています。

 そして皮肉にも「永世不朽の和親」、の約束が、87年後の1941年の真珠湾攻撃により踏みにじられるという運命をたどるのですが、そこには米国の膨張政策という日米間には避けがたい歴史の必然性があったのかもしれません。

 第2次世界大戦での敗戦による終結は、ペリーの来航と同様に我国にとっては外圧により社会システムが大きく変えられる契機となった事件であります。

  驚くべきことにペリー来航による和親条約当時の状況と終戦時の威圧的な演出の類似性をあげれば、ポツダム宣言を受諾し終戦を迎えて、日米戦(連合国)との降伏文書の調印場所となった戦艦ミズーリ号の甲板ではわざわざペリー艦隊が用いた150年前の星条旗が掲揚されていました。

 米国側はこの戦争が象徴する意図、(米国側からみた正義?)を日本に伝えるために、このような用意周到な演出がなされていました。

 この米国国旗は1854年 1月ペリー来船時の旗艦ポーハッタン号に掲げられていた星条旗をマッカーサー元帥がわざわざ取り寄せて艦上で飾っております。
 また余談ですが
占領後赤坂の米国大使館に初めて掲げられた星条旗は開戦の日にホワイトハウスに掲げられた星条旗が使われていました。最近ではニューヨークでの911テロ事件後に開催されたソルトレークオリンピック冬季大会での開会式にもそのテロ事件で傷ついた星条旗を開会式で使い全世界にテロの不当性をアピールしていました。

 国旗というものは米国民に限らずその国のシンボルでありどこの国でも国民は自国に対する敬意と誇りを持つ象徴となり時として国威高揚の手段として使われるべきものです。
 日本を除いてどの国も国旗に対する思いは国のシンボルでありそれなりの誇りと名誉を担う重要な意味を持っています。あたりまえのことですが国旗についての認識も
日本の常識は世界の非常識の一つであることを知っておくべきです。 
  (写真左はミズリー艦上の調印式。)

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6.歴史は繰り返す私の思うこと
 2003年3月は米国ブッシュ大統領が主張している「悪の枢軸国ー "axis of evil". 」として名指しで非難しているイラクへの先制攻撃(preemption)を始めました。
 それはテロなど何らかのアクションを起こしかねない国に対しては先制攻撃も辞さないという米国の強い意思表明でしょうが、当然その先制攻撃は、以前の湾岸戦争時にくらべて世界中からの反発も強く湾岸戦争では100ケ国以上の国が米国を支持したのに対して、今回は50ケ国程度の支持しか得られませんでした。

 しかし今回の米国の先制攻撃を国連決議を無視して行なったからけしからん。と言うのならなぜ非難している欧州各国は以前の
ユーゴでの米軍の先制攻撃には反対しなかったのでしょうか。 結論はすべての国々はそれぞれ独自の国益を最優先して行動するのが外交の基本であるということです。

 一方米国内を含めて世界中で反戦ムードが高いように思われますが今回の戦争の方が米国内では2月時点では3分の2の国民が支持しており武力行使の決議案も湾岸戦争時にくれべてはるかに高い支持率を得ていました。

 それは
「真珠湾を忘れるな(Remember Pearl harbor)」のスローガンと同様に「いつもわすれない9月11日.(We will always remember 911)」の世論形成がすでに米国内に出来上がっており、テロに対する報復が国家目的として支持されています。
 世界の警察官としての振舞う米国の軍事行動のあり方とイラク・北朝鮮などが脅しとして使うテロ行為を比べてみるとどちらが本当のテロ国家か、という論議は別にして、米国には民主国家として世界にそれなりの普及拡大という使命をもっています。

 日本のテレビ報道などを見ていると米国内での反戦デモが国論をあたかも二分しているような印象をうけますが、現実はそうではありません。 すでに米国内の世論は真珠湾攻撃の時と同様に米国が開戦決意をしたという時点で参戦ムードができあがっていました。

 ただ今回は欧州各国からの賛同を得られず国連決議を無視しておこなった先制攻撃はブッシュ大統領にとって大きな賭けであったでしょう。
 今後の展開次第では引続き世論の支持が得られるのか疑問ですがともかく3週間程度の攻撃とハイテク戦術により市街戦においてもゲリラ化した悲惨な泥沼戦も回避してフセイン政権はあっけなく崩壊しました。

 最新の軍事技術がこれまでの戦争形態である国をあげた破壊的な消耗戦ではなく実に効率的な作戦で今までの戦争パターンを大きく変える戦術でした。

 
我国が今回は少なくとも以前の湾岸戦争の時のようなことはなく、米国支持をいち早く表明したのは今の憲法を遵守する国是を考えても、やむをえない決断であり、選択肢は多々あるが、まずは賢明な選択である思います。
 日本の平和憲法下で国益を考えた最大の選択であり仮に小泉首相だけでなく誰が指導者であっても当然そうなったでしょう。


 むしろ今回ほど国連の脆弱さと同時に、日本の外交上の問題として自国の国益のみ主張する国連加盟各国に対して我国が多額の国連経費負担をしているにもかかわれず戦争回避にむけて日本が何もアピールできなかったこと。そして国連の無力感を実感した次第です。まさに国連はUN(United Nothing-何もしない連合。)そのものでした。
 皮肉な言い方ですが、我国の憲法前文でうたっているような平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して平和を求めている国際社会に対して、ただただ感情的な平和の訴えだけでは不十分であり、名誉ある地位を希求するならそれなりの負担と責任をもつ覚悟があってこそそれが可能となるものです。

 
先制攻撃論は一方的に自国の論理を押し付けるものであり、これが許されるのは被害者にとってテロ行為とどれだけ違うのでしょうか。先制攻撃ができるのは世界中からその行為に普遍的な正当性が認められ支持されてはじめて可能となるものです今回がそれに該当したのかどうかは今後の大量破壊兵器等の発見や民主化などの進捗状況にもよります。

 いずれにせよこれからの戦争においては、これまで以上に武力よりも世論形成などの情報戦がより重要な役割を果たします。
  今回のイラク戦争や北朝鮮の拉致事件問題に直面し、我国の国益を考える中でこれまで続けている不毛な平和論議が変わることを期待したいものです。

 ちょうどペリー来航によって鎖国から開国へと国策を変えざるを得ない状況になったのと同様に、いま戦後続いてきた平和憲法を享受し米国依存してきた時代から、今後は日米安保体制や自衛隊のありかたなどの防衛政策等に対する根本的な見直しが必要な変革期にあります。 なかなか不況から抜け出せない経済の閉塞的な状況を打破していく上にもイデオロギーを越えて社会のあらゆる分野での見直し変革が迫られている重要な岐路にあります。

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7.イラク戦争の終結
 
今回のイラク戦争は軍事革命(RMA-Revolution in Military Affairs)といわれるほど兵器の向上と正確なピンポイント攻撃により世界に米軍の圧倒的な強さを顕示しました。今後世界はその巨大な軍事力を背景にした米国主導の世界秩序がこれから続きそうです。

 これまでの戦争パターンは無差別空爆や国の工業力の破壊を目的とした総力戦で多くの破壊が伴うものでしたが、RMAにより拠点的な攻撃で機能麻痺を狙う戦争、プロレス型消耗戦から一撃で麻痺させるボクシング型の戦争への変化で人的被害や破壊を少なくする戦いです。情報収集分析力とハイテクが勝敗を決する時代になりました。

 先日ネットニュースなどで流れていた米国本国へ帰還中の空母甲板上でのブッシュ大統領戦争終結宣言をみるかぎりますますその感を強く感じました。 フセインの消息が未だに不明であるがとにかく一定の成果を短期間に達成911のテロに対する回答として米国流の民主主義を拡大したこと。RMAへの評価、今回の戦争の意義や帰国する兵士へその労をねぎらったスピーチがされていました。

 作家の曽野綾子氏は文芸春秋五月号において、イラク戦争を評して次のように書かれています。 
 
「今度の戦いで、日本人の多くは事実の裏も読めず、厳しい現実にも参加せず、個人的な命やかなりまとまった金を捧げることもせず、アメリカを離れてどうしたら国を守る現実的な制度ができるかに改めて触れる勇気もなく、ただその場限りの平和を唱えることで、自分は善人であることを証明しようとした。そういう人々を--私をも含めて--ほんとうは卑怯者というのである。」

 「人間の盾」として今回は日本の若者も活動していましたが、インターネットで入手した情報では、なんと毎日新聞の記者も出国時点はすでに渡航自粛があるにもかかわらず「人間の盾」の反戦グループと行動を共にして同じビザ資格で入国していました。その後現地で取材活動を続けて、帰国時には現地で拾ってきた不発弾が不運にも空港の手荷物検査場で爆発し職員がそれで爆死するというお粗末な事件がありました。機内で爆発していたら大惨事になっていたでしょう。

 人間の盾の裏側活動(現地写真)を伝える 東長崎機関のHP。(クリック)
    (クリック-)人間の盾団の裏側。現地報告ページ)

  このページを見ていると人間の盾へ参加した反戦平和を主張する若者等は、わざわざ旅費と時間をかけてまで現地に行って一体何をしていたの?
と思えるような行動です。ともかく今回の結果はピンポイント爆撃により民間人の被害をさけながら戦闘は続きました。

 こんな事件が起きることが日本のジャーナリストの恥でもあり、その後毎日新聞では折込謝罪文を入れたり現地へ幹部社員が飛んで社を上げてその対応されていました。
 まあ記者本人はたぶん持ち帰って手柄にしてニュースネタにでもしようと思ったのでしょうが、検査にあたって死亡した空港職員は職務とはいえ気の毒としか言いようがない予期せぬ事件でした。

 ヨルダン王国と我国とはODAなどで親日的な国とのことですが大事に至らないことを念願するものです。

 日本の国連への貢献度は米国についで多額の負担金(米国以外の常任理事国の合計以上。)を負担していながら我国は世界から外交上のプレゼンスは何も期待されず、かりに日本が常任理事国入りをしても日本流の平和主義が世界標準として各国で受入られて紛争時には和平への主導権が発揮できるかといえば疑問です。

 冗談になりますが、もし日本が常任理事国入りを本当にしたいなら、現在米国が国連機関のUNESCOには国是にあわない理由で脱退したのと同様に、たとえば常任理事国でありながら負担金を滞納している国を非難し、国連負担金の支払を拒否をするか、負担金に応じた発言の機会がないことを理由に国連脱退をほのめかせばやむを得ず国連機能を維持する上で日本が必要なので駆け引きに成功するかもしれません。

 いずれにせよ国益を考えるなら日本はその経済力に応じた外交上の主張をもっと行なえる環境をつくるべきです。
 イラク戦争後には注目される北朝鮮がいよいよ孤立を深め、いつもの脅しだけの外交がそろそろ限界に来ています。 昨年9月の日朝共同宣言の成果は予想に反して拉致問題という国家犯罪が日朝両国間にあり、外交交渉においてもはやこの問題を棚上げして国交回復などできない状況にしました。

  一部マスコミが主張しているような主張として、まず北朝鮮と「国交を回復してこそ拉致問題を俎上にあげ解決交渉テーブルにつかせることが出来る」とか、「戦前の強制連行という拉致をしていて反省もなく、いまさら拉致問題をいうのはおかしい。フェアーじゃない。」といった論調こそ無責任な主張であります。

 反省すべきは過去に総連はじめ政府もマスコミも一丸となってともに進めたきた帰国(北送)事業の誤りに対する反省や謝罪であり、今なお日本人妻の帰国問題としてその禍根を残していることであります。
 少なくとも北朝鮮と早急に国交回復する理由は今はまったくなく、むしろ北朝鮮が今なお国家ぐるみでやってきたおどろくべき謀略工作、覚せい剤輸出や偽札使用、日本からの不正送金、工作船の浸入、万景峰号の新潟港入港などに対して厳しく対応していく必要があります。

 これらの不法行為に対して当然ですが国の威信にかけても、今後は毅然とした措置を取ることが出来るかどうかの問題であり、当然これからの国交回復交渉をする上で、これらの不法行為を拉致被害者問題の解決カードとして使うべきです。
 場合によっては極論になりますがこれまでの米国依存の安保体制から脱皮し、今の政治状況では無理でしょうがそれなりの独立国家にふさわしい防衛施策が必要かもしれません。
 日米関係もこれまでの従属的な関係でなく、世界に貢献している日本としての対等な日米関係を目指すべきです。難しい事ですが依存型防衛政策から相互信頼に応える独自の自主防衛を目指した戦略をどうしていくのかという政策が必要です。
 
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 8.開国から明治時代年表
 
2004年の1月に「ラスト・サムライ」というハリウッド映画が好評を博しました。
海外で制作されたこれまでの日本物の映画には奇想天外な描写があり、いつも異文化理解の難しさを感じるのですが、この映画は時代が変われども米国がいまも同盟国に武器供与や軍事顧問を派遣しているように、時代は幕末期で米国内の南北戦争後に余った武器を幕末の戊辰戦争がモデルであろうと思われる混乱した日本に売り込むために来た主人公が、逆に日本の「侍」としての生きざまに共感し、武士道に感化されるというストーリーであります。

 新渡戸稲造の「武士道」がかって海外で多くの人々に感動を与えたのと同様に「武士道」というテーマを多少誇張されているがこの映画では非常に好意的な捉え方で紹介しています。

 2004年は1854年に神奈川条約が締結されて150周年にあたる記念すべき年になります。ワシントンにあるNational Archives(国立公文書館)では3月27日から9月6日まで
半年間にわたり「日米和親条約」の特別展が開催されます。ベリー提督の日記や4カ国語の条約文書の展示がされるそうです。
日本の近代化に日米関係は大きな影響を与えてきました。これからの日米関係はどうなるのか予測するのは難しいです。

 geopolitics(ジオポリティクス−地政学)という発想はあまり馴染みがないですが21世紀は中国やロシアなどランドパワーと日本や英国、アラブ諸国などリムカントリー(沿海国)などのシーパワーの衝突が21世紀のテーマだという説があるように、、日米関係は我国にとって外交上また安全保障上非常に重要な役割を担うものがあり、アジアの国々との友好関係はかっての戦時体験がいまなお障害となっています。

 これからも太平洋をはさんで米国とはよきパートナーシップをどう築いていくのか大切なテーマです。

 
1868(明治1) 鳥羽・伏見の戦いおこる。五箇条の御誓文が出される。
  1869(明治2) 版籍奉還が行われる。戊辰戦争が終わる。
  1871(明治4) 廃藩置県が行われる。
  1872(明治5) 新橋〜横浜間に鉄道開通。
  1873(明治6) 地租改正が行われる。
  1874(明治7) 民選議院設立の建白書を提出し,自由民権運動がおこされる。
  1877(明治10) 西南戦争がおこる。
  1881(明治14) 国会開設の詔が出される。自由党が結成される。
  1882(明治15) 立憲改進党が結成される。
  1885(明治18) 内閣制度ができる。
  1889(明治22) 大日本帝国憲法の公布。
  1890(明治23) 第1回帝国議会が開かれる。
  1894(明治27) 日清戦争がおこる。
  1895(明治28) 下関条約に調印する。三国干渉が行われる。
  1901(明治34) 八幡製鉄所が生産を開始。
  1902(明治35) 日英同盟がむすばれる。
  1904(明治37) 日露戦争がおこる。
  1905(明治38) ポーツマス条約に調印。
  1910(明治43) 韓国を併合する。
  1912(明治45) 明治天皇がなくなる。

  
   開港史の舞台、詳しい史料のある下田市のホームページ(クリック) 

 9.
「ていていたーのスペース」ページにあったビデオ作品「日露戦争」
     「大日本帝国の最期」がYoutubeにて掲載されています。

   日露戦争ー前編ー(高画質版 Youtubeより。13:27秒)
        
  
   
日露戦争ー後編ー(高画質版 Youtubeより。8:08秒)
   
     


 
  これまで日本が戦ってきた戦争を通じて必見の日本人のアイデンティティに迫る感動作品です。
  

     大日本帝国の最期 第壱幕〜大平洋、波風立ちて〜 上映時間 14:08

     大日本帝国の最期 第弐幕〜帝国皇軍 斯く戦へり〜上映時間 15:24

     大日本帝国の最期 第参幕〜日はまた昇る〜     上映時間 14:53


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                  私が感動したこと。のページへもどる。