明けましておめでとうございます。2009年年頭雑感
     ー今年も多くのみなさんからのアクセスを期待しております。-

  皆様には、すがすがしい2009年の新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
 今年も多くの方との出会いを期待したいと思っています。
 私が「清酒発祥の地ー伊丹」のホームページを立ち上げたのは震災の翌年1996年(子年)のことでした。早いもので今年で13年目を迎えます。この間にパソコンの普及や進歩は驚きます。
 当時は便利なソフトもなくHTML形式のテキストファイルをエディターで編集して見よう見まねでホームページを作ったものでした。 ページ作成ソフトもなく画像処理に必要なレタッチソフトといえば欲しかったPhotoShopですが、当時10万円以上で生業としない者が持つには贅沢。やむなくWindows付属のおまけペイントソフトとフリーソフトを駆使して1枚の画像編集に3時間ぐらいの根気で作ったこともありました。
 ホームページはその後も基本的な変更もせず、本来なら今の時代環境にあったきれいなページに全面改訂すべきですが、昨年も気持ちがあれど気力がついていかずそのままになってしまいました。しかしハード環境だけはCPUや基板交換を繰り返したのでパソコンが6台目、基本OSも当初のWindows3.1,95,98、2000、ME、XP、VISTAへと日進月歩ならぬ秒進分歩の進化に付き合いました。
 何事にも好奇心が旺盛な私ですが、一昨年にCPUが3万円もする高価なCPU、Core2Duo搭載2GBのメモリーのVISTA機を組み立てましたが、いまだにVISTAの操作に馴染めず、歳のせいでしょうか使い慣れた古いXP機が覚えることがなく便利で使い続けています。今年こそはページの全面改訂とともにVISTA移行にがんばっていきたいと思っています。
 私も早いもので干支頭の子年生まれ、いわゆる「団塊の世代」のど真ん中、昭和23年生まれで昨年『還暦」を迎えました。まだまだ気持ちは若くて精神年齢は50代ですが、今年は人生の折り返し点を過ぎて、心機一転して第2の人生の出発となる年になりました。
 いつも新年を迎えるたびに思うことは、人は人生を通じて自分の歳相応に心得ておくべき振る舞いが出来るよう成長し心がけたいと思うものです。

子曰、
 吾十有五而志於学。三十而立。
四十而不惑。五十而知天命。
六十而耳順。
七十而従心所欲不踰矩。 

(論語、為政第二)
口語読み)
子いわく
「吾十有五にして学に志し、三十にして立つ。
四十にして惑はず、五十にして天命を知る。
六十にして耳順ひ、
七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず。」
 

 中国の古典より引用、もっとも昔は人生50年とかいわれた時代で長寿社会とは無縁だったので、70代までしか記述はないのかもしれませんが、60は「耳順」の年と言われています。
 耳順とは、この歳にもなれば、ただ単に人の意見に耳を傾けるだけではなく『事の善悪や相手の品性を見抜ける様になる』と言う事らしいですが、私にはそこまでは無理としても、せめて今年のモットーは人の意見に耳を傾ける余裕の人生を送りたいものです。
 今年は丑年、ゆっくりのんびり、何事もあせらずにマイペースで行きたいと思っています。
皆様の今年1年のご健康とご多幸をお祈りいたします。今年もよろしく。

電子年賀状は以下のURLに掲載しています。http://www2a.biglobe.ne.jp/~qpon/maplink/nenga09/

 <<2008年の思い出 >>
*楽しきかな。ネット三昧の日々・一期一会

 昨年もホームページを通じて多くの方との出会いがありました。 どちらかといえばシニアの方との出会いが多くあり、それぞれに人生の先輩として示唆に富んだ見識や経験をお聞きすることが私の心を豊かにしてくれます。
 「一期一会」というの語源は、「茶会に臨む際は、その機会を一生に一度のものと心得て、主客ともに互いに誠意を尽くせ」といった、茶会の心得からです。
 利休の弟子「宗ニ」の『山上宗ニ記』に「一期に一度の会」とあり、ここから「一期一会」の言葉が広く使われるようになりました。
 「一期」と「一会」をそれぞれ辿ると、「一期」は仏教用語で人が生まれてから死ぬまでの間を意味し、「一会」は主に法要などでひとつの集まりや会合を意味しており、ともに仏教と関係の深い言葉であります。 
 洋の東西を問わず人が出会ということは、非常に意義あることと思われています。余談になりますが、以前に聞いた話ですが、英語でも MeetとSee はどちらも会うということを意味します。
 例えば人に会うときの挨拶は、英語では初対面の人には Nice to meet you. はじめまして。という意味(一般的)、そしてその後再会してから Nice to see you. また会えて嬉しいよ。 そして終わりに、See you again また会いましょう。
 などなど、Meet と See は同じ「会う」という意味ですが、使い方が場面によって区別されています。 つまりmeetは初めて初対面の人の挨拶で使われます。2度目からは、その人を以前に何らかの感覚で認識しているため、see(見る)が使われます。
 また約束(appointment)をとる時や、待ち合わせではmeetを使います。人間同士が物質的に遭遇することを目的とする場合には meet のようです。
 「神ともにいまして」という賛美歌を思い出しましたが原題は、God be with you till we meet again です。 Godに会った者はいないですが、このように会えるまで神様の存在を意識することが詠われるようにmeetの意味は重いのです。
 パソコンのおかげで多くの方と知り合いまた出会いがあるのもネット三昧の楽しみの一つです。
 昨年は私のホームページが契機となって多くの方々との出会いがありました。そして感動することが多々ありましたので、それなりにパソコンによる出会いの効用があり嬉しくおもいました。これからも長い人生で出来るだけ多くの方々とのすばらしい出会を大切にしたいと思います。
 2009年丑年の年頭にあたり、昨年特に私の印象に残った方々との出会いを振り返り皆さんに紹介します。

今に生きる白洲次郎
 神戸市シルバーカレッジ・国際交流・協力コース12期生の植田氏との出会い。
 このシルバーカレッジの12期生は植田氏はじめ8名のシニアの皆さんが白洲次郎をテーマに研究されております。
 植田氏とは伊丹にあった白洲屋敷(リンク)の調査で植田氏が伊丹に来られたことがきっかけとなり、発表資料にも私のページの紹介をしていただきました。
 ご本人から後日郵送していただいた26ページの成果発表冊子は白洲次郎に関する貴重な資料であり、このサイトでも紹介したいと思います。
 このシニアカレッジの皆さんがテーマに従い誠実に史実を追われる活動にはすごいものがあります。白洲次郎にゆかりのある三田市や伊丹市、はじめ縁のある神戸高校への関係者の調査訪問だけでなく、なんとフィールドワークとして彼が留学した英国のクレア・カレッジまで行って学籍簿を調査、「彼の神戸一中を中退、17歳で渡航19歳でケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学した。」との記述が書物では多いのですが、その真偽を確認するため現地の大学当局者から1923年の入学許可記録の写真を冊子に掲載されています。
 最近では白洲が当時のマッカーサーを叱り飛ばしたなどというエピソードが関係者の証言にあるのも当時の状況から考えても眉唾ものであり、このような人物関係の書物には表現に誇張や著者の主観が入り、時として事実でないことが通説として流布するものです。
 先日白洲次郎に関するラジオ番組でもさまざまな話題が関係者から語れていましたが、実際はこうだったということが多々あり興味深い内容でした。
 また今回植田氏と出会えたのは、ご本人から質問をうけ伊丹市にあった4万坪の屋敷とはどう考えても現在の地形上照合して無理があり、その真偽を聞きたいとのことでありました。 私も無責任といえばそれまですが白洲次郎に関する書籍などから引用してそのまま4万坪という表現でホームページに紹介記載したものですから、実際に考えて4万坪といえば、坪3.3平米として132,000平米となり甲子園球場のスタンド・グランドをあわせても39,600平米であるので白洲屋敷はこの3倍以上といえば、やはり無茶な話です。この場所にあてはめて考えれば、地形的にも無理があります。
 多くの紹介書籍での表現は4万坪の引用が多く、白洲御殿と呼ばれるほどの大邸宅であったことは確かですが、多分4000坪ならさもありなん。というところでしょうか。引続き調査していきたいと思います。

(内容表示法は、右の表紙をクリックしてください。)

50年代の刀根山の駐留米軍宿舎

  O.J Humphrey IIIとRoberta DeVoreさんとの出会い。
 私のホームページ(Osaka Airport Today)を見て、当時米軍将校用の住宅地となっていた刀根山に子供の頃にいたので、今はここの町並みがどうなっているのか関心がありぜひ見たいとの問い合わせメールを4月ごろにいただきました。
 メールの内容では秋に観光目的で日本に来るとのこと。 私は空港近くの刀根山には将校用の住宅地となっていたことを知っていたし、大阪空港に関する紹介ページを掲載しているので、当時の様子を聞きたくその後メールで本人から旅程などを聞いて最終的に10月10日に京都に滞在する時に刀根山を案内することになり、ガイドを引き受けました。
 わざわざ携帯電話まで日本で使えるようにローミング契約されて10月のはじめに東京から今日本に着いたとの電話を私の携帯にかかり先方の携帯番号を確認。
 これまでメールでやりとりしていたので初対面といえ、旧友に会うような気持ちで10月10日に宿泊先近くの京都の喫茶店で出会い、京都市内を見てから約束の刀根山周辺をドライブし、かっての住居地を探しました。
 しかしながら下の地図写真の赤線のコースで周辺を車で探したのですが、本人の記憶からそれらしき場所が特定されず、私もこのあたりの土地勘がなくて当時とはまったく町並みが変わっているので結局は見つけられずにあきらめました。そして大阪空港内のレストランで色々と当時の話を聞くこととなりました。
 13才の姉とご本人は10才で母親が時々蛍池という町に買い物したこと。電車で大阪に行ったことなど覚えている程度で、当時の米軍関係者子弟の小学校は空港内の基地施設内にあり、姉はなんと今の京都植物園あたりにある米軍関係者の学校まで通っていたことや今年の米国大統領選挙の話など雑談となりました。
 その時に当時の新聞や写真のコピーなどいただいたものの中に姉さんがが描いた絵(下の写真は父親の赴任先の刀根山に来て時に自宅から見た周辺の景色)がありました。
 そしてこの絵を手がかりに、せっかく来られたのですから私から後日見つかればお知らせますということで別れました。
 私としても二人とも70才を超えられて、今回シアトルから姉弟がいっしょに思い出の日本に来られている機会になんとか見つけてあげたい気持ちになりました。
 帰国2週間後10月26日には姉のロベルタ女史の旦那さんの訃報をメールで知り連絡も控えておりましたがクリスマスカードいただくなど日本の年賀状のように考える必要がなかったのかな。 ともかく何とか当時住んでおられた場所を特定できないものか色々とネット検索したところ、大阪大学大学院教授である小倉明彦氏の郷土史エッセー【嘘人半真の郷土史】のページを見つけました。
 ご本人はご自身のホームページは私の落書きですと言われていますが、内容は摂津一円の多岐にわたる歴史の話題で充実しており、読んでいても楽しく、示唆に富んだ内容です。 そして私が厚かましくも、メールで事情を説明しこの場所探しの件についてお願いしたところ、阪大博物館にある米軍撮影の航空写真資料などをPDFにして情報をいただきました。 
 またその後メールでやりとりするうちに追加して小倉氏から、通勤途上に、わざわざデジカメ写真を撮っていただき以下の説明とともにその写真をメール添付していただきました。
 
 「現在の豊中市待兼山町12番地あたりに立って、現在の大阪大学刀根山寮を見上げた景色に相当するのではないでしょうか。刀根山寮は進駐軍宿舎(の一部)の跡地に建った建物です。添付したファイル(刀根山寮への坂5.jpg)は刀根山寮の現在の風景で、この坂の50mくらい手前から見たらお姉さまの絵に近くなるかもしれません。」


 せっかくこのような貴重な情報をいただいたので、わたしも後日デジカメを持参して現場に行き、この描かれている松の形と丘の上にある松が枝ぶりもそっくりで50年の歳月を超えて残っていたことを確認し感動しました。
 確かにこの場所に間違いないことを確信してコメントを添えてGoogle地図とともに数枚の写真を添えて、その後の調査のいきさつと、この絵をもとに場所が特定できたことをメールしました。
 いただいたHumphrey氏の返信メールには
You are a great detective (like the police). Thank you for all of your efforts and interest in where we lived so long ago.
 
と書かれており、detective(探偵)といわれるほど私がマニアックな変わったヤツと皮肉られているのか、それとも素直に感謝されているものと理解すべきなのかはよくわかりませんが、日本人の律儀さというか約束したことはやるという誠実さが理解してもらえたのかなと自己満足しています。
 何はともあれホームページの縁で、今回の出会いがあり、駐留軍がイタミエアーベースにまだ駐在していた当時の50年代の伊丹周辺の様子が聞けたこと。
 また事前にメールでやりとりする中で、ジョン万次郎のことや三浦綾子の小説「海嶺」でも紹介されていますが、私の所属するボーイスカウト兵庫連盟の事業として行なった三吉顕彰碑の話などの話題で盛り上がりました。
 とにかくこの話題を地元のシアトルの方に紹介できて大いに関心をもってもらったことが嬉しい限りです。 余談になりますが、三吉顕彰碑のことについて少し紹介いたします。兵庫県の姉妹州であるワシントン州のシアトルから来られるとのことで事前に私のホームページのBS兵庫連盟の国際交流のページ(クリック)の話をしました。
 簡単に紹介しますと、1989年7月にボーイスカウト兵庫連盟は現地へ顕彰碑を寄贈、当時のブッシュ大統領(父)からのメッセージも建立式典で披露されました。 皆さんよくご存知のNHKの大河ドラマ「篤姫」にも登場していました幕末の漂流漁民ジョン万次郎の体験よりも早くに米国西海岸に漂着した三名の日本人船乗がいたのです。
遠州灘沖で江戸に向かう途中に台風に遭って1年以上も太平洋を漂流し次々に船乗りが壊血病で亡くなる中で、最後に生き残った三名の水夫がワシントン州フラッタリー岬に漂着しました。 若い彼らは異国の地で原住民の奴隷にされたのですが、英国人開拓者に偶然見つけられ原住民から買い取られました。 しかも彼らは英語を勉強する機会を得て逞しく生きて帰国の途につく物語です。  
また彼らとの出会があって、異国の地日本に興味をもったのがラナルド・マクドナルドです。先日TV番組の「世界ふしぎ発見」でも紹介され、利尻島に行かれた方は記念碑がありご存知かと思います。
 マクドナルドは、幕末に長崎の座敷牢でオランダ通詞らに日本で最初に英語を教えた人物といわれています。初めて出会った日本人(三吉)に興味をもった彼は鎖国の日本へ行くために船乗りとなり利尻島に密航しました。しかし松前藩に捕らえられて長崎送りとなったのです。なぜボーイスカウト兵庫連盟は彼らを顕彰するのか?
という理由ですが、3名の水夫で一番若い音吉はまだ14歳の少年でありその後に非常に数奇な運命をたどり日米、日英関係に数々の活躍や日本語版の旧約聖書の翻訳作業をマカオで日本人として初めて協力した。また鎖国下の日本で多くの国外漂流民を日本に帰す活動など波乱万丈の人生逞しく生き抜きました。
 漂着したワシントン州は兵庫県の姉妹州でありまたシアトルと神戸市は姉妹都市です。
 それよりもこれは自立心や逆境の中でも最善を尽くして生きていく知恵。いわゆる「生きる力」がスカウト運動(精神)の目的と同じくするからです。
 詳しくは上記のページで紹介していますが、私がこの3名の漂着水夫(三吉)顕彰事業の関係者でもありましたので、来られる前に英語の紹介ページの紹介をし、事前に説明しておりました。もちろんシアトルに住んでいるがこんな話は始めて聞いたとの事でした。そんなわけでなんとお土産にイチローのいるシアトルマリナーズの野球帽と私が日米関係の幕末の歴史などに興味があるのではと心遣いされて日本の開国を論評した書籍”The Great Wave”をいただきました。内容は興味あるのですが、たぶん今年中に原文を読み終える根気があるのかは未定です。

 このように今ではまったく見ず知らずの方とメールで交流ができるのはやはりインターネットのおかげです。それにしても正しく思ったことを意思疎通するためにもっと英語を勉強しておけばよかったと思う今日この頃です。
(写真はクリック拡大表示。)

   
 阪大博物館にある米軍撮影航空写真  矢印が下の写真の現場
   
当時13才のロベルタさんが描いた絵画  松の形が似ており絵画の場所と特定 

  
地域見本市でのNPO法人歴史文化財ネットワークの紹介
 
社会ウオッチングエッセー・吉角弘氏との出会い。
 11月30日に宝塚ソリオホールで阪神北地域ビジョン委員会・こころ豊かな阪神北推進会議・阪神北青少年本部など阪神北県民局の主催、ならびに管内の各市が共催して地域見本市と「地域ってこんなとこよ、お父さん!」と題した講演会が開催されました。
 当日は兵庫県からの兵庫県自治賞の各功労賞、くすのき賞、こうのとり賞、のじぎく賞など各種表彰と併せて阪神北青少年本部長賞の各賞表彰式が行われました。今回は私も青少年育成活動に貢献したということで本来なら若い指導者を顕彰すべきところでしたが、光栄にもボーイスカウト団体関係者ということでこの歳になって青少年団体指導者に贈られる青少年本部賞をいただきました。
 当日のイベント会場となったのソリオホールの地域見本市会場には阪神北県民局管内5市1町からさまざまな地域活動団体がブースをつくり活動紹介されていました。
 伊丹市からも巨木の会、ボランティアまつり実行委員会、など6グループが紹介されていましたが、特に三田市のNPO法人「九鬼奔流で町おこしをする会」のコーナーでは川本幸民や白洲次郎など三田にゆかりのある人物などが紹介されていました。
 そのコーナーで資料解説のボランティアをされていた昭和6年生まれの吉角弘氏との出会いがありました。
  三田藩主の九鬼家というのは熊野水軍で鳴らした志摩の出で同地の名族であり、九鬼嘉隆は関ヶ原の勲功により鳥羽五万五千石の大名となったが、その二人の息子が争ったため、寛永十年に幕府裁定によって隆季が綾部二万石に、また久隆が摂津三田三万六千石に移封され、それぞれ明治維新まで続くことになりました。
 このような史実から三田史や九鬼水軍と白洲退蔵などの話題に個人的に関心があったので解説されているご本人から様々なお話を伺うことになりました。そしてお話がはずんでご自身がかかれた回顧録「軍国少年、変じて野球少年となる」という冊子をいただきました。 ご自身の出身は三重県伊勢市大湊であり、幕府御用船の船大工棟梁の家で育ったとのことでした。
 余談になりますが、九鬼水軍の話も興味深かったのですが、ご本人のお話で印象に残ったのは、子供には海を見て育つことの大切さ。つまり子供の頃に、広い海と水平線を見て育つことがよいこと。 それは子供心に必然的に大海原の水平線の向こうには何があるのか関心や好奇心ををもつ。つまり未知のことに対して想像力を働かせ夢や憧れを抱いて目標や志を持つ機会となります。
 このことが子供の時代に大切であるとの話でしたが、私も同感です。伝記などで多くの先人が海をみて大志をいただいことが出てきます。以前どこかの講演会でどなたの話か忘れましたが、山は僧侶や山伏の修行の場にふさわしく、人が思索にふける所、だから思いつめて樹海などで心中や自殺があるなど暗いイメージに対して、ところが海は思い詰めずに気持ちを開放的にさせる癒しの場です。 海は人の心を広くポジティブにする所。との話を聞いたことがありその話を思い出した次第です。
 三田藩主の九鬼家には先祖の水軍のDNAを受け継いだ開放的な進取の気風があって幕末から明治の文明開化の時代を生きてきたのでしょう。 とりとめもなく余計な話になりましたが、いろんなお話を吉角氏とする機会がありました。そして年末にご本人から資料の郵送をいただきました。
 この年代の方は体験として価値観が激変する日本の戦前から戦後の高度成長期を生き抜いててこられた世代ですので、当時の想い出が縷々記述されており、我々団塊の世代以前の昭和1ケタ世代の方々が体験された当時の時代背景や戦後の印象を非常に興味深く読ませていただきました。そしてこのたびご本人の許可をいただきましたのでPDFファイルとして下記に掲載します。
 この冊子はご本人が南山大学野球部OB会の南友会会報2008に掲載されたものです。また吉角氏が3年間にわたり中国の古典を図書館などで調べられた膨大な中国古典再見記四文字熟語原野探訪資料もいただきました。神戸では新聞記事に紹介されている「川柳の会」など地域で今も様々な活動をされています。
「軍国少年、変じて野球少年となる」(PDFファイル)

 昨年はこの他にもホームページでの縁で色々な方と交流がありましたが、メールだけでなく実際に会って話をすることでより印象が残ったので年頭にあたり昨年の思い出として紹介した次第です。ホームページを立ち上げれば迷惑なスパムメールもまた多いですが、やはり楽しいのは皆さんからの感想メールなどリアクションがあることです。今年もなにとぞよろしくお願いします。