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有馬山 いなの笹原 風吹けば、 いでそよ人を 忘れやはする 後拾遺集 大弐三位(小倉百人一首58番) (解説) ![]() (撮影場所:伊丹市下河原エアーフロントオアシスより六甲連山を望む。) 有馬山とは有馬温泉で知られていますが伊丹の東にある「六甲山」。 戦後の名曲「青い山脈は、西条八十さんの作詩に音楽家の服部良一さんが阪神間の北部に連なる六甲連山を眺めてその曲想を得たといわれています。 ![]() また万葉集にも古くから「いなの笹原」と詠われて来た伊丹は奈良時代に名僧行基が佛教の布教に訪れ、昆陽池や、昆陽寺の前身である昆陽施院をつくるなど、社会事業も行いました。 その猪名野という名前はすでに奈良時代から使われており、和歌にも猪名野という言葉がよく出てきます。この万葉の時代、有名な歌人によってたくさん詠まれたところでもあり、 「いなの」にかかる枕詞は「しなが鳥」で俳句の季語にもこの「しなが鳥」が出てきますが、「しながどり」とは、滋賀県の県鳥である水鳥、カイツムリのことです。 「志長鳥、猪名野を来れば有間山 夕霧立ちぬ宿はなくして」 しながどり、いなのをくれば ありまやま ゆうぎりたちぬ、やどはなくして。 (読み人知らず) ほかにも「しながどり」で始まる歌碑が市内に数ヶ所ありますが、伊丹市は。古代から「ありまやま(六甲山)」を望んだ景勝の地として非常に親しまれた土地柄だったと思われます。 ![]() やがて中世になり伊丹姓を名乗る武士団が活躍します。 摂津国伊丹城の城主であった伊丹兵庫守親興が、室町幕府足利義昭に加勢して織田信長と戦い、戦況悪く、宇治の槙島城が落とされた為、親興は高槻芥川城に逃げ込みました。 現在の交野市の榜示の里(ホウジのさと)には「伊丹」姓が多いのは当時逃げ込んできた伊丹一族の末裔と言われています。 傍示は河内の国と大和の国の国境である。現在の交野市にある。大阪と京都のほぼ中央に位置し、西は寝屋川市、南は四條畷市、北は枚方市に接しています。 1574年荒木村重によって追放され伊丹城は有岡城と改名されます。しかしその有岡城も織田信長に 背いて落城という運命をたどります。 その後伊丹市は天領地として、 江戸時代中期に伊丹郷町の10ヶ村が近衛家(現在近衛家の紋章が市章となっている)の領地(天領)となり以後は近衛家の積極的な保護や威光を受け清酒づくりが盛んとなった。伊丹で造られた酒は「近衛殿御家領摂州川辺郡伊丹郷」のブランドとして高級酒の名声を博し、その産業の振興に力を入れたため酒造業が盛んとなりました。 そして豊かな経済力は町の文化インフラを高め、頼山陽や飛騨高山の彫刻師谷口与鹿など全国各地から酒をたしなむ文人、墨客を魅きつけました。地元からは「東の芭蕉、西の鬼貫」といわれる俳人上島鬼貫が輩出するなど「津の国の隠れ里」として文化の華が開きました。 市内中心部には 往時を偲ぶ町並みや日本の三大俳諧文庫として知られている柿衞文庫(ちなみに他の2箇所の俳諧文庫は、東京大学図書館「洒竹・竹冷文庫」、天理大学図書館「綿屋文庫」が我国の三大俳諧コレクションと言われています。) をはじめ、酒造業が栄えた伊丹郷町に江戸時代後期の商家を復元した旧石橋邸、重要文化財で現存する最古の酒蔵のある岡田邸が往時の景観を残しています。 郷町として栄えた往時の面影を残して、伊丹市立美術館、工芸センターに隣接して,新たに伊丹郷町館(旧岡田家住宅、旧石橋家住宅、新町屋をいう。)を加えた文化ゾーンを「みやのまえ文化の郷」として平成13年7月オープンしました。 |