1950年代の大阪(伊丹)国際空港   (更新:H28.5.10)

  空港のある町-伊丹市は、時として大阪国際空港の名称から大阪府と間違われますが、兵庫県伊丹市にあり、伊丹空港(空港コードも大阪湾上にある関西空港がKIXですがITMで大阪へのアクセスに便利な空港として親しまれています。)
  戦後1950年代に大阪空港は米軍基地として使用されていた時期があります。
  当時は朝鮮戦争の前線基地としての役割があり、私のホームページ(英語版)に当時駐留していた米軍関係者から写真を送ってもらったり、当時のことを懐かしんでメールをもらったりします。

 ここに珍しい当時の空港の写真やEメールで知ったことなどをみなさんに紹介します。

  当初このホーム―ページを立ち上げた理由はこれらの駐留された米軍関係者のために現状の伊丹空港を紹介するため、いただいた多くの写真などを英語版に掲載していますので関心ある方は,*Osaka airport Todayをクリックしてください。
  (下の写真はクリックで拡大表示)   
        
大阪空港の概要

1939年 1月17日 大阪第二飛行場として開港
1945年 9月    米軍に接収される
1951年10月25日 民間航空との共用を開始
1958年 3月18日 米軍から返還・「大阪空港」と改称
1959年 7月 3日 第一種空港に指定され、「大阪国際空港」と改称
1960年 4月 1日 国際線一番機乗り入れ
1964年 6月 1日 ジェット旅客機乗り入れ開始
1970年 2月 5日 B滑走路(3000m)供用開始
1989年 1月17日 開港50周年を迎える
1994年 9月 4日 関西国際空港の開港により国際線が同空港へ移転

  
昭和31年   ICAOの理事国となる
  昭和32年  伊丹管制業務全面移管  全日本空輸(株)設立
  昭和33年  伊丹飛行場、日本に返還、大阪空港と改称
          東京国際空港、小牧、千歳の管制業務全面移管
  昭和34年  航空交通管制本部設置  航空交通管制業務の米軍からの全面返還
          大阪国際空港は、大阪府豊中市・池田市及び兵庫県伊丹市にまたがる
         総面積317万7654にA滑走路1,828m、B滑走路3,000m、
         3,000m、その他誘導路・ターミナルビル等関連施設を備えた第1種
         空港で、関西国際空港開港後も西日本の空の基幹空港として利用され
         ている。  滑走路           長さ-幅
            A滑走路(Runway32R,14L) 1828m-45m (Runway32L,14R) 3000m-60m


 さらに詳しい空港の沿革は下の表をクリックしてください。(拡大表示)

   

追記:H21.11.1 市内在住の能田氏からいただいた空港の歴史(PDF)ならびに
          昭和28年頃の神津・森本地区大字地図。(PDF)

  50年代の米軍に共用されていた伊丹空港(Itami Air Base)
      
Osaka(Itami)Air Port Today(英語版)


 伊丹市他周辺都市の騒音対策の沿革
昭和39年6月    ジェット旅客機が就航
  39年10月 「大阪国際空港騒音対策協議会(現大阪国際空港周辺都市対策協議会)」が発足
昭和42年8月     国が「航空機騒音防止法(公共用飛行場周辺におる航空機騒音による障害の防
         止等に関する法律)」を制定

昭和45年2月     大型ジェット機が就航可能な3000mのB滑走路の供用開始。前年に完成し
         ていたターミナルとあわせて現在の姿に

昭和48年10月    伊丹市が「大阪国際空港撤去都市」を宣言
平成2年12月 「大阪国際空港騒音対策協議会(現大阪国際空港周辺都市対策協議会)」が
同空
        港の存続について運輸省との協定書に調印。
        空港存続が決定17年9月大阪国際空港騒音対策協議会が「大阪国際空港周辺都
        市対策協議会」に改称

平成18年 7月  「伊丹スカイパーク」一部オープン
平成18年10月  「大阪国際空港との共生都市宣言を求める請願書」が伊丹市議会で採択される
平成19年4月  「空港撤去都市宣言」を議決した兵庫県伊丹市の市議会が3月9日新たに市が提案した

         「大阪国際空港と共生する都市宣言
」を賛成多数で可決した。
           共生都市宣言は3月9日の市議会での採決では、19対9で賛成が反対を上回った。

        「大阪国際空港と共生する都市宣言」(PDF)
    
      市議会で採択される
平成20年7月 「伊丹スカイパーク」全部開園


平成23年5月17日 「関西国際空港及び大阪国際空港の一体的かつ効率的な設置及び管理に関する
        法律」が成立(同月25日公布)。

平成23年12月5日 国土交通省にて、新関西国際空港株式会社第1回設立委員会が開催。
平成24年4月 1日 新関西国際空港株式会社が設立(法律の会社設立部分の施行)。

平成24年7月 1日 新関西国際空港株式会社が関西国際空港と大阪国際空港の運営を開始し、両空港
        の運営一体化予定(法律の空港運営部分の施行)。

平成24年7月27日 大阪市は大阪国際(伊丹)空港周辺都市対策協議会(11市協)の総会で協議会か
        ら脱退すると表明した。

平成26年1月17日 伊丹空港開港75周年。「飛躍へ関空と二人三脚」くすぶる廃港論、将来像をど
        う示す。運営権売却先秋にも決定。   (産経新聞1/17記事より。)

平成27年11月10日 新関西国際空港は11月10日大阪国際空港(伊丹空港)の運営権売却(コンセッ
        ション)の優先交渉権者として、オリックスとフランスの世界的な空港運営会社
        であるヴァンシ・エアポートを中核とするコンソーシアムを選定したと発表した。
        2016年4月1日から運営事業を開始。事業期間は2060年3月31日までの44年間。

平成28年4月1日 関西エアポートの運営開始。(5.9毎日新聞記事)
 





 需要予測
 
 新聞記事はクリックすれば拡大表示します。



航行中の航空機がリアルタイムで表示されます。る(便名、行先、出発地、機種など。)
表示される航空機はGPSを利用したADS-Bトランスポンダー装備の航空機が対象。

Common aircraft models that are visible on Flightradar24 (have an ADS-B transponder):・All Airbus models (A300, A310, A318, A319,A320, A321, A330, A340, A380)
BAe ATP BAe Avro RJ70 BAe Avro RJ85 BAe Avro RJ100
Boeing 737  Boeing 747  Boeing 757  Boeing 767 Boeing 777  Boeing 787
Most new deliveries of Embraer E190   Fokker 70   Fokker 100
Gulfstream V Gulfstream G500/G550  McDonnell Douglas MD-10 MD-11
Sukhoi SuperJet 100  Some newer Ilyushin and Tupole for example Il-96 and TU-204

FLIGHTRADER24(リンク)


       

  空港入口にあったゲート(Itami Air Base)米軍駐留.当時の滑走路は2本あり、長い滑走路は進入方位320度で今と同じ。
 その他いただいた伊丹基地(ItamiAirBase)の当時の写真ページ(クリック)


 *下線表示の場所はすべてリンクしていますのでクリックしてださい。)
写真提供者Daveさんのホームページ



 現在の大阪国際空港航空写真

 〔右の写真をクリックすれば拡大表示します。)




  


 伊丹空港で1957年アカデミー賞受賞映画「SAYONARA」の撮影が行われ、主演は日本でも有名な映画俳優ゴッドファーザーなどでおなじみの
マーロン・ブランド(Marlon Brando)が伊丹空港でロケ撮影した時の写真を紹介します。 

 この原作は
邦訳本「サヨナラ - 愛と戦争の物語」紀元社出版(1977)著者James Michener です。
  映画「SAYONARA」は日本が舞台となった映画で、米兵と日本人女性との恋愛物語です。当時米国政府は、米兵と日本人との人種を超えた結婚は、まだ法的に認められなかった時代であった。 そんな困難な時代にあって社会の不合理に立ち向っていく恋愛物語です。原作者は、魅惑の夜、バリハイなどの映画音楽で有名な映画「南太平洋」の原作者でもあるJames Michenerの映画化です。

ウイキベディア(電子百科事典)でsayonaraの検索で記事中に伊丹空港が出ています。 http://en.wikipedia.org/wiki/Sayonara

 この作品は1957年に数々のアカデミー賞を受賞しました。出演女優であるナンシー・梅木は日本人で最初のアカデミー賞受賞者です。
 昭和4年小樽市富岡町に生まれる。兄が米軍の通訳をやっていた関係で、占領軍の米兵を通じてジャズを知り、キャンプで歌い始める。

昭和21年上京し、もっぱら米兵を慰問しレコードを聴きながらジャズを勉強した。その後、日劇の舞台に立ったりビクターから出したレコードがヒットしたりして有名になったが、30年勉強のしなおしのため渡米。アメリカでスカウトされラジオ、テレビに出演。さらにワーナー映画「サヨナラ」に出演し可憐な演技を買われ、アカデミー助演女優賞に輝いた。 
  アカデミー賞の日本人の受賞は、外国語映画賞が「羅生門」(51年度)「地獄門」(54年度、衣装デザイン賞も)「宮本武蔵」(55年度)。俳優は、助演女優賞を受けた「サヨナラ」のナンシー(ミヨシ)・梅木(57年度)ただ一人。当時、23歳だった。

 米、英国人以外の助演賞獲得は彼女が最初だった。ほかに「乱」のワダ・エミ(85年度、衣装デザイン賞)、「ラストエンペラー」の坂本龍一(87年度、作曲賞)、黒沢明(89年度、名誉賞)、「ドラキュラ」の石岡瑛子(92年度、衣装デザイン賞)らがいる。

 下の写真はDVDビデオ「SAYONARA」より。
 67thTRW ITAMI AIR BASE (第67偵察航空隊)             空港に降り立った場面。背景に六甲連山が見える。
   
  



映画「SAYONARA」 Youtubeより。

上の写真は1956年に昭和天皇が
伊丹空港を訪問されたときの陛下
一行の行列風景です。 
昭和天皇全国巡幸のページ
(クリック
当時の大阪中ノ島付近の写真と思われます。当時は空港基地から阪急電車で蛍ヶ池から梅田や神戸にでかけた時の写真が送られてきました。
    写真提供者上記のDaveさんのページにあります。
   メールをいただいた駐留軍の方から入手。Rose Bar と左の写真(食堂のナプキン)はニューフレンドというレストラン(焼き飯がとくにおいしかったとのこと。

 また当時この菜の花畑の写真を見られた故郷の両親から米国にある花と似ておりその名前を知りたかったそうです。
駐留軍がベースとして使っていた当時、空港入口付近(蛍池からゲートまでの道路)には米兵相手のサロンや洗濯屋、飲食店などがあったそうです。

女優マリリン・モンローも伊丹空港に来ていました。


今年1月にDonald Weberさんから送られてきた写真には、解説の中には、1954年になんとあのスーパースターである女優マリリンモンローが夫のJoe DiMaggioと伊丹空港に来ていたことを知り驚きました。 


 
またこの時期には時の副大統領であったはニクソン副大統領も海兵隊を訪問のため、来ていました。

  



当時の基地内ホークアイという新聞記事。
NEWLY-WEDS-Joe Demaggio and his bride, Marilyn Monroe, were served refreshments in the Japan Air Lines Terminal during a brief layover en  route to Fukuoka, Kyushu. The famous couple signed autographs and met base officials while at Itami AB.  
 
    (Itami Air Base Photo)


 
 DiMaggios & ODoul Mobbed By Fans On Flight Line   By Donald S. Ford

Joe DiMaggio, his bride, the much publicized film star, Marilyn Monroe, and Lefty ODoul stopped briefly at Itami Air Base last Monday evening en route to Fukuoka, Kyushu, via a Japan Air Lines flagship. DiMaggio and ODoul were scheduled to spend three or four days on the southern island coaching baseball players in the Central League before returning to the Kansai District to help get the baseball season underway in Kobe and Osaka.    After the Japan Air Lines DC-4 was parked, the Yankee  Clipperstood on the Loading platform and talked with the large crowd of military personnel, dependents and Japnese Nationals who had come to see the famous newly-weds.          
 Later Marilyn appeared in the doorway of the flagship and posed for photographers.   The 20th Century Fox actress did not appear misty eyed and moisty-lipped etc.,   etc. She simply looked like the beautiful wife of an exbase-ball star, apparently happy and very much in love with her husband.     During the ten minute press conference in the JAL terminal, DiMaggio reiterated his reasons for combining his honeymoon with a baseball visit to Japan. His wife sat beside him patiently while photographers took more pictures and the crowd passed bits of paper through a terminal window for her to autograph.
    Asked if she thought her squabble with 20th Century Fox would be ironed out soon, Marilyn said, I certainly hope so, I am definitely against making Pink Tights.The picture has been produced three or four times under various different names. I would like to appear in more musicals like Gentlemen Prefer Blondes. Marilyn seemed anxious to get started on her scheduled trip to Korea the 16th. She will make as many stops as possible during the four-day tour, traveling from post to post by helicopter. The DiMaggios will leave for the states on Feb. 24, Joe will proceed to New York immediately, and if  Marilyns suspension has not ended by then, she is expected to accompany her husband East.


 そのほかWeberさんからJALやANAの客室ビルや古い飛行機、兵舎などの写真がメールの添付ファイルで送られてきましたのでこれら多くの写真(白黒)を掲載しています。
  その他Donald Weberさんから送られてきた写真のページへ(英語表記)。

  上のイラストはダン・ウイバー(Don Weber)さんが右の写真から自分の記憶をもとに当時の空港内のスケッチをされたものが送られてきました。 これらの写真を見る限り米軍の施設にくらべてJALのターミナルビルや当時の日本人の姿が印象的です。1955年当時の空港の施設をご存知の方や表示に間違いがあればご意見ください。下の番号はイラスト内の参照表示番号です。
(写真をクリックすれば拡大表示します。)
                
1 コントロールタワー 2 HQ作戦本部 3JALターミナル
4 モータープール 5 サービスクラブ 6 士官級クラブ
7 整備駐機場 8 将校クラブ 9 劇場
10 基地内売店 11 新食堂棟 12 新兵舎棟
13 正門入口 14 空港基地表示看板 15 ニューフレンドレストラン
16 燃料貯蔵庫 17 チャペル(教会) 18 旧兵舎棟
19 旧食堂棟

 
   
ウエーバーさんから駐留当時空港周辺で撮影されたカラー写真
。 
  上の写真を各々クリックすれば拡大表示します。
  (送られてきた写真の説明によるとJALの管制官家族や場所が不明ですが豊中、宝塚、箕面周辺。それと当時狭い農道で出会った少女との事です。2枚目の写真の青々とした雲雀丘方向の長尾連山や、5枚目の少女の恥ずかしそうな表情がよく撮れています。) 
 写真に心当たりがあればご一報ください。   

 
  ( 3月9付阪神版

 


  (3月21日TheDaily-YOMIURI

 (3月9日付大阪版)

NEWS このページの紹介が3月9日付朝刊読売新聞(左上)阪神版、(左下)大阪版に紹介されました。

 記事の内容は見出し以外は同じです。


写真をクリック
すれば記事が拡大表示します。 約200Kbあります。しばらくお待ちください
 
 また新聞記事の反響で多くの方々からメールをいただきました。なんとその中に当事マリリンモンローから花束をもらった方の紹介をします。ご本人の承諾を得ましたので、大阪の小澤朋子さんからいただいたメールで彼女のお父さんの話を紹介させていただきます。
 
 父の名前は小澤古志郎(こしろう)といいます。56歳。
  ”
当時の伊丹空港はわずか2~300坪程の四角い建物だったと思います。 そして滑走路に出るのにわずか7~80mの柵で仕切られていたと思います。
 私の家は曽根崎新地で料理屋をしており、朝日新聞社及び住友系の会社の偉いさんが沢山お見えになっておりました。そのうちの一人を仲居頭と弟と3人で、空港に見送りに行き、その柵の横に置いてあったイスに腰掛け、お客様が目的の飛行機に向かって行くのを見ていたと思います。
 その時にひとかたまりの集団が滑走路の方より歩いてきました。うろ覚えですが10名程度だったかな?その中にマリリン・モンローがいたんでしょう。そして、空港ビルに入る前に座っている私に新聞社の方からもらった花束を渡してくれました。何もわからなかった私は(その頃10歳だったと思います。)家に帰り姉に話しますと、「あんた、それマリリン・モンローやで」と言われました。が、あまりピーンときませんでした。その後何年かたち、あーマリリン・モンローだったんだな、と思うようになりました。誰に言っても信じてもらえず、この新聞記事を見、みんなに「それ、見た事か」と自慢しております
。” 
ということです。なんだか、その時の光景が目に浮かぶようです。
 この話は、娘の私が小学生の頃から聞かされていたことです。


 マリリン・モンローのIDカード

 MM ID card  (Jack Hayslett :photo)
  H27..5.19追記  Jack Hayslett : photo)
  
 MM steps off the plane at K-16 in Feb. 54 for a USO show.
    
 Glenn Reedさんから送られてきたメールに当時空港入口付近の見取図があります。ほとんどがバーや飲食店でした。当時の町並みをよくご存知の方教えてください。
     Club map in AFB            
 (左図の表示参照番号です。)           
1.Itami AB Sign(空港基地表示) 11 The Coconut
2 The Cherry 12 The Blackout
3 The Rose 13 The Stork Club
4 New Friends Restaurant 14 The Happy Hour
5 The Four Aces 15 The New Yorker
6 The Chicago 16 The Hawaii
7 Train Station 17 The Itami
8 The Ginza 18 The Harem
9 The Pacific 19 Itami Main Gate(空港入口)
10 The Bolero Informed From Mr. Glenn Reed,
May 1st 2001
(クリックすれば図が拡大表示します。)
  
当時の写真がそのままカラープリントコピー処理されて送られてきました。右側4人の一番左が当時戦略物資の輸送任務に従事していたGlenn Reed氏。
6127th Air Terminal Groupクリック第6127空港隊参照のKoreanWarのページへ

  また当時駐留していた方からのメールで知った事ですが空港周辺にも様々な施設があり、特に大阪の浜寺公園には米軍住宅施設等もあり彼らのリゾート地になっていたそうです。
 機会があって浜寺公園の歴史について、(財)日本造園修景協会大阪府支部の平成4年5月22日発行「おおさかの修景」設立10周年記念誌掲載において清水正之氏が書かれた「歴史からみる浜寺公園」のコピーを入手しました。記述された内容から引用致します。


 「昭和21年10月から進駐軍の住宅用地に選定され、約1700本もの松が伐採された。そして日本人立入禁止、海水浴場閉鎖となった。昭和28年になってやっと海岸の接収が解除され海水浴場が再開。しかし海辺に出るには米軍住宅地を迂回しなければならなかった。 昭和32年6月に大阪調達局長より近畿財務局長あてに「FAC4048浜寺公園住宅地区の返還について」の通達があり、大阪府は近畿財務局長に府営公園として使用申請等の手続きを経て正式に返還されたのは翌年の2月であった。」
 松林の美しい浜寺公園にとっては受難の時代でもありました。 
         (左の写真は「おおさかの修景」誌より。右の写真は公園パンフ表紙より。)


伊丹市立東中学校内にあるこの建物は?
Do you know what was this house, warehouse or something else?

 現在当時駐留されていた米軍関係者に聞いていますが色々と答えがあります。

(left picture)   Map of location地図 (click)
 倉庫、弾薬庫あるいはGCA(航空無線誘導室)など様々な事を聞きますが、どなたかご存知でしょうか。


左のパッチは1956年に行われたボーイスカウトのInvitation Campの記念ネッカチーフです。スカウト関係者でこの時のイベント情報をお持ちの方。ご一報ください。

 元伊丹市稲野町に住んでおられた Mr.John Szalay さんからの情報でアメリカのネットオークションE-bayに1957年の記念のライターがあるとのメールをもらいさっそく競り落としました。何の記念に作られたかは不明。
"Itami A.B. JAPAN 67th RECONNAISSANCE TECHNICAL SQUADRON 1957".
  


50年代に伊丹ではなく三沢基地に駐留されていたSneadさんからメールをいただき当時彼が駐留した日本国内の基地の写真や軍票、身分証明書などの写真が送られてきました。
 現在はフロリダのTampaに住んでおられますが多くの写真を編集してホームページで紹介されています。三沢、稚内、横田、立川、またフィリピンの基地など多くの写真を見ることができます。 
http://geocities.com/us2002d/AboutMe.html (クリック)
http://geocities.com/us2002d/MisawaNorthJapan.html (クリック三沢基地)
Military Payment(軍票)               身分証明書



















 三沢基地                      稚内兵舎. 
















 

当時基地の施設管理関係の将校であったアーサー・J.ノルデンさん(現在86歳)へ伊丹市長から贈られた感謝状。

 このホームページをノルデン氏のご子息ジョン・ノルデン氏が見つけられメールをいただきました。
 本人の父親が当時地元の市長から護岸工事に貢献して感謝状をもらったとのことをメールで知りました。

 もし写真で送れるなら確認したいので、ぜひともその写真を見せてほしいとのお願いしました。
 現在イリノイ州に在住されているジョン・ノルデンさんも当時は家族で刀根山の米軍住居地に住んでいたことがあり、わざわざバージニア州まで遠路1000km以上もドライブされ今も壁にかかっていたこの感謝状を取りににいったとのことでした。そして今の猪名川の写真を送ったところご本人の話では神戸へ買物に行く時に通った橋や道路のことなどを思い出し、今ではすっかり変わっているのに驚いたとのことでした。当時の周辺住民にとっては当然朝鮮戦争の支援前線空軍基地は迷惑な存在だったかも知れませんが米軍はこのような公共工事や周辺都市の火災の際には応援の消防車を出すなど地元へも様々な貢献をしていたことがわかりました。


追伸
  ジョンさんからのE-mailで7月2日にお父さん(アーサー・ノルデン氏)が亡くなられた事を知りました。衷心よりご冥福をお祈りいたします。

 
 左の書籍はノルデンさんから1955年の第67戦略偵察航空隊(The 67th Tactical Reconnaissance Wing)の記録誌が送られてきました。せっかくお父さんが大切にされていたので返送したいと返事しましたが地元の図書館にでも寄贈してほしいということで博物館へ寄贈しました。当時の基地内の生活や大阪の町並みなどが掲載されています。    
  
写真はクリックすれば拡大表示します,

 ー空港入口付近の飲食店や土産物。
   

     *このパッチファイルはDave氏から提供。


 当時駐留していた方もすでに高齢化され知る人が少なくなりその記憶が風化していきそうですが、このページがきっかけで多くの方からメールをいただいたりして当時の世相を少しでも知ることができた時はうれしいものです。
 さっそくノルデン氏の情報をもとに市の広報誌(縮小版)を探していて昭和29年5月15日号市民と市政代47号に地元の苦情処理(基地からオイルが用水路に出る苦情)記事でなんとノルデン氏の名前を見つけました。 また当時は定期的に地元自治体と基地問題での協議があったみたいです。
 記事の第6回日米協議会の中で論議されているRRセンターはレクレーション・センターといっても接客的な施設で当時は奈良にあったみたいです。

 写真はクリックすれば拡大表示します,。(左から伊丹市広報「市民と市政」第47号、44号、50号)
    

  再び.Glenn Reed さんから、本人の写真と戦友会でDougさんや奥さんとの2ショットの写真や当時の基地内の地図などの資料が送られてきました。



Mr.Glenn Reed,Dec.1951

Left: Doug Moreace
East Rapids, Michigan
Stone Mountain,Vermont
Sept.2003

Right:Glenn Reed
Rochester,Massachusetts



Note:
Doug and Glenn were at Itami
Air Base 1952-1953.
We met at a Air Force Reunion
in 2000. We had not seen each other since 1953.
 Mr. & Mrs. Glenn Reed(Verna)
 Sept. 2003



 下の地図をクリックしてください.(拡大)
 

 オハイオ州に在住のジョンさんからメールをいただきました。彼は退役後日本でのご自身の経験を紹介するホームページ(John-San's Asian Tour of Duty)を開設されております。
 彼のサイトでは昨年までは当時勤務されていた神戸のEast Camp付近の写真や当時の日本の雑誌、風景など多くの写真をアップされていましたが、奥さんの看病ならびにご本人の健康のため現在はゲストブックのみ残っています。

  また50年代に同じく仙台にあった米軍キャンプにおられたリンカーン大統領の末裔にあたるリンカーン氏のホームページもこのサイトで見つけました。
当時の仙台の町並みや人々の生活風俗など興味深い写真が満載されています。

 <<ジョンさんの訃報>>
 ジョンさんの息子さんから2018年1月19日付けの父親ジョン・ハニックの訃報をいただきました。
これまでジョンさんが戦後数年間、米軍の神戸西キャンプがあった写真を生前に編集されておられて、ホームページ掲載予定であったとのことで、そのファイルも添付されて送ってこられました。多感な青春時代をすごした神戸の思い出ですが、ちょっとプライバシーの関係もあり紹介できません。
数年前に奥さんも亡くなられ、また私のこのサイトで知り合いになった友人のエドさんも他界されました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
This is John Hanicks Son.
Dad wanted me to imform all his E-mail contacts on his passing.Sad to say our beloved father passed away peacefully January 19th at 10:25 pm.He very much enjoyed connecting with Army buddies, old friends and family.
He will be missed dearly. Thank you for your friendship with my father.
The Hanick Family
米国では以下のような訃報を葬儀屋さんがサービスしています。

http://www.sinchakandsons.com/notices/John-Hanick

  そしてこのゲストブックから幸いにも私のホームページを見つけさんられたエドさんは現在グアムにおられるます。そのエドさんからのメールをいただきなんと当時彼とおなじ神戸のEast Campで勤務していたことがわかりました。 
 当然ながら当時の基地内の食堂やPX(売店)などでとうぜん出会っていたと思われることから、その後お二人は50年ぶりに旧交を温められJohn氏が掲載されていた写真等をCD-ROMに焼いて送っていただきました。
 私がいただいたCDの写真ですが、すべて紹介するためには容量がかなり大きくいましばらく編集に時間がかかりそうです。私のホームページをきっかけにこのような出会いがあったことを嬉しく思います。
 またエドさん(左下の写真)から三宮駅とトーアロード付近にあり当時将校用の宿舎となっていたFUJI-Hotelについて今どうなっているのか聞かれています。もし神戸の方で当時の事情をご存知でしたら私までメールください
 エドさんの思い出 "TWO OLD SOLDIERS "全文表示(PDF)
 


 追記:”伊丹空港が映画で紹介されています。”

  私の伊丹空港紹介ページ(英語版)を見つけられた米国インディアナ州にお住まいのWarrick Barrett氏からメールをいただきました。
 彼は若いころ1959年(昭和34年)に見た映画
”The Hunters"(1958年の作品)で、当時は伊丹空港が映っていたことをまったく気にしなかったのですが、その後数年前に改めてDVDで見て映画で映っているのは伊丹空港であることがわかったとのこと。ちょうど見つけた私のページで50年代の伊丹空港を紹介していたためその話をメールでいただきました。ご本人にお願いしたところわざわざ米国からその映画のDVDも送っていただきました。
 メールによると、これまでにもoccupational medicine(職業病医学)の分野で何度か来日された経験もあり歴史が好きで、飛騨高山、松江、明石、大田、冨山など東京、大阪だけでなく日本の地方都市にも来たことがあり、今後もまた機会があればぜひとも日本にも来たいとのことでした。伊丹空港が舞台となった映画があることを知り私も嬉しく思いました。

 (写真は“The Hunters” FOX WAR CLASSICS DVD c20th Century Fox社のDVDより引用。)      
 そのDVDを映して見ると最初のシーンは青々とした六甲連山を背景に空港に着陸した飛行機から黄色の文字で「Welcome to Itami Air Force Base Japan」と書かれたタラップで降りる主演俳優のロバート・ミッチャムが空港基地内の事務所に入るところが映されています。
 このDVDについて調べてみると日本では”The Hunters”ではなく「追撃機」というタイトルで20世紀Fox社から、すでに昨年10月に日本語版も発売されていました。内容は朝鮮戦争当時の物語です。
         << あ ら す じ >>
 『眼下の敵』のディック・パウエルが監督・製作を務めた戦争ドラマ。朝鮮戦争のさなか、第二次大戦の勇者・サビルが伊丹空軍基地に赴任する場面から始まります。彼は戦闘の恐怖から酒浸りとなったアボット中尉の妻と急接近する。しかし、ミグ戦闘機と空中戦して敵の真っ只中にパラシュートで不時着、命からがら危機突破して敵地から帰還をはたす。当時としては実写を交えた空中戦の場面は圧巻です。トップガンを彷彿されるジェット機の空中戦シーンでは撮影にあたり空軍が協力したとか。58年当時の作品としてはよく出来ています。

 まだまだ当時を懐かしんで伊丹基地でゆかりのあった米国在住の方からビデオやホームページの紹介など情報をいただいていますが順次紹介していきます。
 下の写真は1951年に伊丹空港で撮影されたPB4Y-2 PRIVATEER (700機しか製造されていないらしい。)で海軍VP-28隊が使用していたもの。今年20年9月にラスベガスでReunion(同窓会)をするとのこと。私も(ジョーク?)招待されましたがとても出席できません。


  世界で一番遅れが少ない空港はどこでしょうか?(2008年1月14日Forbesの記事より引用。)
  The World's Most-Delayed Airports
  ブラジリア国際空港が世界で一番遅れる空港で定刻出発できた便は27%をすこし下回る状況。なんと日本の(大阪伊丹)国際空港がが2007年で最もタイムリーに到着する空港であり、8%だけが予定通りに 着陸しなかっただけ。とForbes誌の記事が伝えています。もっとも上位10のうち6つまでが日本です。
 大阪国際空港の利便性もさることながら公共交通機関がダイヤ通り運行できる日本はうれしくなりますね。
  In Japan, Osaka Itami International airport had the most timely arrivals--just 8% of its flights didn't land on schedule in 2007.
 But the country had by far the best track record for on-time departures--six of its airports are in the top 10.
  Osaka Itami leads the pack, with 97% on-time departures in 2007; Tokyo's Haneda airport, which saw more than 66 million people  pass through its terminals, was second best. Only 7% of the flights departed late there.
  As policymakers try to figure out how to make flights more efficient in New York and other U.S. cities, seems like the obvious
  place to look for guidance is the Far East.  --Additional reporting by Robert Malone



 京都新聞に伊丹空港の写真が掲載される。
 
京都新聞の河村氏からこのページの伊丹空港の写真の掲載について照会がありました。このサイトで伊丹空港関係のリンクから多くの方に見ていただいているのを嬉しく思いました。
(記事をクリックすればPDF形式で拡大表示。)
 そして平成20年7月30日付の掲載紙をいただきました。京都の名物観光ガイド「ジョー岡田が見た戦後」として京都文京大の鵜飼正樹准教授の執筆で「サムライ日本ショー・ジョー岡田が見た戦後」のタイトルで京都新聞・文化欄に毎週水曜日に約25回の予定で連載されています。
 そういえば以前に私も京都の二条城でちょんまげ姿で風変わりな外人観光ガイドさん見かけてましたが、どうやらその方が岡田氏だったようです。
 
記事クリックPDF


朝日新聞に米軍駐留当時の写真が掲載される。(2010.3月

  朝日新聞の武田氏からメールで写真掲載の依頼があり平成22年3月9日付の朝日新聞にその写真が掲載されました。 これらの写真はすべて、駐留軍として伊丹エアーベースにおられたJames Miller氏方からいただいたものでさっそく提供者)にメールで掲載通知をしました。
 当時駐留していたすでに皆さんは70歳台後半から80台ですが、今もインターネットでメールが送れる元気な人たちで、空港が縁となりメール交換をしています。
 伊丹空港は1939年に完成した大阪第2飛行場(伊丹飛行場)が前身。敷地311ヘクタールの64%を伊丹市が占める。全国的に伊丹は兵庫県ですが、この記事にも大阪(伊丹)空港と記載される場合が多く、伊丹市が大阪府と間違えられることが多いのも大阪国際空港の名称がすっかり定着しているからでしょう。
 先日3月5日に伊丹市で「大阪国際空港の活性化を考える集い」が開催されました。もちろん橋下大阪知事の伊丹空港廃止論ではなくて、伊丹空港は関西圏にあって非常に便利な位置にあり関西経済の発展になくてはならない存在であり、空港存続の視点で論議されました。
 これまでの空港の歴史を振り返ると米軍基地となっていた時代や大型ジェット機就航に伴い、周辺住宅地で騒音問題が深刻化し、撤去を求める住民運動が起こり、64年に伊丹市を含む地元8市で大阪国際空港騒音対策協議会が発足し、伊丹市は73年に「空港撤去都市」を宣言し、後に11市協になりました。しかし、航空機の改良や離陸距離の短縮化、周辺整備が進み騒音問題も改善されてくる中で、90年に11市協と運輸省(現・国土交通省)が協定を調印して存続が決まり、2007年には伊丹市が「空港と共生する都市」を宣言しています。
 結論的には空港の存在をめぐって紆余曲折の論議がありましたが、いまでは関西空港の活性化をはかるためにどうすべきか。という論議がされています。
 現実に大阪空港から遠距離の国内便を伊丹から関西国際空港の発着便にシフトされましたが、かえって利用客が減ったこともあります。
 また、過去に騒音問題で空港撤去を掲げながら、空港の存続を求めるのは住民エゴと言う意見もありますが、関西国際空港が作られたのは大阪空港周辺住民の騒音対策としてでなく国の航空行政施策として将来の航空需要の増大に対応していくということで必然的に空港がつくられたものであります。その点で関西国際空港があるから廃港するという発想は間違いです。むしろ国民の利便性と航空需要の増大をどうはかっていくのかということが大切です。
 これまでに伊丹市では空港建設により消滅した村や田畑を買収され耕地面積が減少した住民など、様々な過去の経緯や増便に伴う騒音被害に悩まされ、その緩和に住民運動など担ってこられた先人の努力があり、苦渋の選択を経て空港の廃止ではなくて空港との共生を受け入れ選択しました。これからは関西3空港の共存共栄が模索され航空需要の拡大をはかるときでもあります。(記事クリックPDF)

その他大阪国際空港の減便による費用便益分析の研究発表。
  
大阪国際空港(伊丹空港)の運用に係る 費用便益分析-公共政策の経済評価
   - 東京大学公共政策大学院 2006年度冬学期事例レポート(PDF)*クリック  

テレビ大阪でこのサイトが紹介されました。(2010年10月14日
 テレビ大阪の田淵記者からメールで大阪空港に関してこのページをみられて連絡をいただきました。写真の掲載などメールでやりとりするうちに取材されることになりました。
 羽田空港の国際線が運航再開されることもあり、関西でも大阪空港も国際線の待望論があります。
     番組名;ニュースBIZ(毎週月~金 17:13~30)
    放送日;10月14日(木)17:13~30 テレビ大阪。
    企画 「大阪国際空港…いまなぜ『国際線復活待望論』
       
<Youtubeは著作権により。>

北摂アーカイブスに「50年代の刀根山の駐留米軍宿舎」(2012年9月)
 北摂アーカイブスは北摂地域に散在する記録を収集整理し電子データーとして保存、ホームページで公開されています。
 地域から提供される街並みや自然、暮らしや出来事などの写真や記録を市民ボランティアにより広く収集しデーターベース化やWEB掲載を豊中・箕面市立図書館がバックアップしています。
 私のホームページで紹介していた当時米軍宿舎におられた方のエピソードの記事(リンク)へのリンク依頼がありました。待兼山に建てられた宿舎付近の金坂池の写真です。

 
 *北摂アーカイブスページより。(掲載ページへのリンクは写真クリック)
 
豊中の特飲街ー占領期伊丹ベース  
  豊中の特飲街 -坂口晴香-
関西学院大学社会学部 島村恭則ゼミ卒業論文要旨
  戦後の売春は政府からの通達で公認されたものであったが、市政年鑑によると、蛍池では認可を受けている売春業者のほうが無認可のものよりも少なかった。など戦後の空港周辺の風俗業などをテーマに書かれた坂口さんから資料をいただきました。


 私は当時伊丹基地に駐留された方からいただいた当時の新聞記事で千歳市の売春業の状況を知りました。 2マイル平方(約3キロ平米)になんと564軒の売春宿がありその実態を知って"Sex Circus"と表現され町の現状を伝えている記事です。
  千歳のSex Circusを報じる新聞記事(英文の記事)(PDFファイル)

占領と朝鮮戦争に翻弄された地方都市 (北海道千歳市)リンク
 終戦後に接収された米軍基地の町北海道千歳市の歴史を詳細に市史編さん担当の千歳市総務部の大谷氏のページ。

 人は思い出を希望として、未来に託す動物である。」といわれますが、些細なことでも、このホームページを通じて何らか空港に縁があり素晴らしい思い出を持っておられる方から様々なメールをいただければ、何よりも嬉しく思います。 
    Next to the page of introducing Itami Air Base in 1951

     原爆投下、マッカーサー証言などWWIIについての日本側の見解など

 
                       (1951年当時の空港のページへ)
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