1950年代の大阪(伊丹)国際空港
空港のある町-伊丹市は、時として大阪国際空港の名称から大阪府と間違われ ますが、兵庫県伊丹市にあり、伊丹空港(空港コードも大阪湾上にある関西空港がKIXですがITMで大阪へのアクセスに便利な空港として親しまれています。)戦後1950年代に大阪空港は米軍基地として使用されていた時期があります。当時は朝鮮戦争の前線基地としての役割があり、私のホームページ(英語版)に当時駐留していた米軍関係者から写真を送ってもらったり、当時のことを懐かしんでメールをもらったりします。 ここに珍しい当時の空港の写真やEメールで知ったことなどをみなさんに紹介します。多くの写真は英語版に掲載していますが、関心ある方は,*Osaka airport Todayをクリックしてください。
大阪空港の概要
1939年 1月17日 大阪第二飛行場として開港
1945年 9月 米軍に接収される
1951年10月25日 民間航空との共用を開始
1958年 3月18日 米軍から返還・「大阪空港」と改称
1959年 7月 3日 第一種空港に指定され、「大阪国際空港」と改称
1960年 4月 1日 国際線一番機乗り入れ
1964年 6月 1日 ジェット旅客機乗り入れ開始
1970年 2月 5日 B滑走路(3000m)供用開始
1989年 1月17日 開港50周年を迎える
1994年 9月 4日 関西国際空港の開港により国際線が同空港へ移転
昭和31年 ICAOの理事国となる
昭和32年 伊丹管制業務全面移管 全日本空輸(株)設立
昭和33年 伊丹飛行場、日本に返還、大阪空港と改称
東京国際空港、小牧、千歳の管制業務全面移管
昭和34年 航空交通管制本部設置 航空交通管制業務の米軍からの全面返還
大阪国際空港は、大阪府豊中市・池田市及び兵庫県伊丹市にまたがる
総面積317万7654にA滑走路1,828m、B滑走路3,000m、
3,000m、その他誘導路・ターミナルビル等関連施設を備えた第1種
空港で、関西国際空港開港後も西日本の空の基幹空港として利用され
ている。
滑走路 長さ−幅
A滑走路(Runway32R,14L) 1828m−45m
(Runway32L,14R) 3000m−60m
伊丹市他周辺都市の騒音対策の沿革
昭和39年6月 ジェット旅客機が就航
39年10月 「大阪国際空港騒音対策協議会(現大阪国際空港周辺都市対策協議会)」
が発足
昭和42年8月 国が「航空機騒音防止法(公共用飛行場周辺における航空機騒音に
よる障害の防止等に関する法律)」を制定
昭和45年2月 大型ジェット機が就航可能な3000mのB滑走路の供用開始。
前年に完成していたターミナルとあわせて現在の姿に
昭和48年10月 伊丹市が「大阪国際空港撤去都市」を宣言
平成2年12月 「大阪国際空港騒音対策協議会(現大阪国際空港周辺都市対策協議会)」
が同空港の存続について運輸省との協定書に調印。空港存続が決定17年
9月大阪国際空港騒音対策協議会が「大阪国際空港周辺都市対策協議会」
に改称
平成18年7月 「伊丹スカイパーク」一部オープン
平成18年10月 「大阪国際空港との共生都市宣言を求める請願書」が伊丹市議会で採択される
平成19年 4月 「空港撤去都市宣言」を議決した兵庫県伊丹市の市議会が3月9日、新たに市が提
案した「大阪国際空港と共生する都市宣言」を賛成多数で可決した。
共生宣言は3月9日の市議会での採決では、19対9で賛成が反対を上回った。
「大阪国際空港と共生する都市宣言」(PDF)
さらに詳しい空港の沿革は下の表をクリックしてください。(拡大表示)

50年代の米軍に共用されていた伊丹空港(Itami Air Base)
Osaka(Itami)Air Port Today(英語版)

当時の空港入口にあったゲート(Itami Air Base).当時の滑走路は2本あり、長い滑走路は進入方位320度で今と同じ。
その他いただいた伊丹基地(ItamiAirBase)の当時の写真ページ(クリック)

*下線表示の場所はすべてリンクしていますのでクリックしてく ださい。)
写真提供者Daveさんのホームページ。
現在の大阪国際空港航空写真〔右の写真をクリックすれば拡大表示します。)
伊丹空 港で1957年 アカデミー賞受賞映画「SAYONARA」の撮影が行われ、主演は日本でも有名な映画俳優ゴッドファーザーなどでおなじみのマーロン・ブランド(Marlon Brando)が伊丹空港でロケ撮影した時の写真を紹介します。
この原作は邦訳本「サヨナラ - 愛と戦争の物語」紀元社出版(1977)著者James Michener です。
映画「SAYONARA」は日本が舞台となった映画で、米兵と日本人女性との恋愛物語です。当時米国政府は、米兵と日本人との人種を超えた結婚は、まだ法的に認められなかった時代であった。
そんな困難な時代にあって社会の不合理に立ち向っていく恋愛物語です。原作者は、魅惑の夜、バリハイなどの映画音楽で有名な映画「南太平洋」の原作者でもあるJames
Michenerの映画化です。
ウイキベディア(電子百科事典)でsayonara検索でも伊丹空港が出ています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sayonara
この作品は1957年に数々のアカデミー賞を受賞しました。出演女優であるナンシー・梅木は日本人で最初のアカデミー賞受賞者です。( 以下の記述は小樽商工会議所のホームページより。)
昭和4年小樽市富岡町に生まれる。兄が米軍の通訳をやっていた関係で、占領軍の米兵を通じてジャズを知り、キャンプで歌い始める。昭和21年上京し、もっぱら米兵を慰問しレコードを聴きながらジャズを勉強した。その後、日劇の舞台に立ったりビクターから出したレコードがヒットしたりして有名になったが、30年勉強のしなおしのため渡米。アメリカでスカウトされラジオ、テレビに出演。さらにワーナー映画「サヨナラ」に出演し可憐な演技を買われ、アカデミー助演女優賞に輝いた。
アカデミー賞の日本人の受賞は、外国語映画賞が「羅生門」(51年度)「地獄門」(54年度、衣装デザイン賞も)「宮本武蔵」(55年度)。俳優は、助演女優賞を受けた「サヨナラ」のナンシー(ミヨシ)・梅木(57年度)ただ一人。当時、23歳だった。米、英国人以外の助演賞獲得は彼女が最初だった。ほかに「乱」のワダ・エミ(85年度、衣装デザイン賞)、「ラストエンペラー」の坂本龍一(87年度、作曲賞)、黒沢明(89年度、名誉賞)、「ドラキュラ」の石岡瑛子(92年度、衣装デザイン賞)らがいる。 |
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上の写真は1956年に昭和天皇が伊丹空港を訪問されたときの陛下一行の行列風景です。
昭和天皇全国巡幸のページ(クリック) |
当時の大阪中ノ島付近の写真と思われます。当時は空港基地から阪急電車で蛍ヶ池から梅田や神戸にでかけた時の写真が送られてきました。 |
写真提供者上記のDaveさんのページにあります。
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| メールをいただいた駐留軍の方から入手。Rose Bar と左の写真(食堂のナプキン)はニューフレンドというレストラン(焼き飯がとくにおいしかったとのこと。また当時この菜の花畑の写真を見られた故郷の両親から米国にある花と似ておりその名前を知りたかったそうです。) |
| 駐留軍がベースとして使っていた当時、空港入口付近(蛍池からゲートまでの道路)には米兵相手のサロンや洗濯屋、飲食店などがあったそうです。 |

今年1月に Donald Weberさんから送られてきた写真には、解説の中には、1954年になんとあのスーパースターである女優マリリンモンローが夫のJoe DiMaggioと伊丹空港に来ていたことを知り驚きました。 
またこの時期には時の副大統領であったはニクソン副大統領も海兵隊を訪問のため、来ていました。
当時の基地内ホークアイという新聞記事。
NEWLY-W EDS-Joe Demaggio and his bride, Marilyn Monroe, were served refreshments in
the Japan Air Lines Terminal during a brief layover en route to Fukuoka, Kyushu. The famous couple signed autographs and met base officials while at Itami
AB. (Itami Air Base Photo)
DiMaggios & O’Doul Mobbed By Fans On Flight Line By Donald S. Ford
Joe DiMaggio, his bride, the much publicized film star, Marilyn Monroe,
and Lefty O’Doul stopped briefly at Itami Air Base last Monday evening en route to
Fukuoka, Kyushu, via a Japan Air Lines flagship. DiMaggio and O’Doul were scheduled to spend three or four days on the southern island
coaching baseball players in the Central League before returning to the
Kansai District “to help get the baseball season underway in Kobe and Osaka. After the Japan Air Lines DC-4 was parked, the “Yankee Clipper”stood on the Loading platform and talked with the large crowd of military personnel,
dependents and Japanese Nationals who had come to see the famous newly-weds.
Later Marilyn appeared in the doorway of the flagship and posed for photographers. The 20th Century Fox actress did not appear “misty eyed and moisty-lipped” etc., etc. She simply looked like the beautiful wife of an exbase-ball star,
apparently happy and very much in love with her husband. During the ten minute press conference in the JAL terminal, DiMaggio reiterated
his reasons for combining his honeymoon with a baseball visit to Japan. His
wife sat beside him patiently while photographers took more pictures and
the crowd passed bits of paper through a terminal window for her to autograph.
Asked if she thought her squabble with 20th Century Fox would be ironed
out soon, Marilyn said, “I certainly hope so, I am definitely against making ‘Pink Tights.’The picture has been produced three or four times under various different
names. I would like to appear in more musicals like ‘Gentlemen Prefer Blondes”. Marilyn seemed anxious to get started on her scheduled trip to Korea the
16th. She will make as many stops as possible during the four-day tour,
traveling from post to post by helicopter. The DiMaggios will leave for the states on Feb. 24, Joe will proceed to
New York immediately, and if Marilyn’s suspension has not ended by then, she is expected to accompany her husband
East.
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そのほかWeberさんからJALやANAの客室ビルや古い飛行機、兵舎などの写真がメールの添付ファイルで送られてきましたのでこれら多くの写真(白黒)を掲載しています。
その他Donald Weberさんから送られてきた写真のページへ(英語表記)。
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| 上のイラストはダン・ウイバー(Don Weber)さんが右の写真から自分の記憶をもとに当時の空港内のスケッチをされたものが送られてきました。 これらの写真を見る限り米軍の施設にくらべてJALのターミナルビルや当時の日本人の姿が印象的です。1955年当時の空港の施設をご存知の方や表示に間違いがあればご意見ください。下の番号はイラスト内の参照表示番号です。(写真をクリックすれば拡大表示します。) |
| 1 コントロールタワー |
2 HQ作戦本部 |
3JALターミナル |
| 4 モータープール |
5 サービスクラブ |
6 士官級クラブ |
| 7 整備駐機場 |
8 将校クラブ |
9 劇場 |
| 10 基地内売店 |
11 新食堂棟 |
12 新兵舎棟 |
| 13 正門入口 |
14 空港基地表示看板 |
15 ニューフレンドレストラン |
| 16 燃料貯蔵庫 |
17 チャペル(教会) |
18 旧兵舎棟 |
| 19 旧食堂棟 |
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ウエーバーさんから駐留当時空港周辺で撮影されたカラー写真。
上の写真を各々クリックすれば拡大表示します。
(送られてきた写真の説明によるとJALの管制官家族や場所が不明ですが豊中、宝塚、箕面周辺。それと当時狭い農道で出会った少女との事です。2枚目の写真の青々とした雲雀丘方向の長尾連山や、5枚目の少女の恥ずかしそうな表情がよく撮れています。)
写真に心当たりがあればご一報ください。
( 3月9付阪神版) |

(3月21日TheDaily−YOMIURI) |

(3月9日付大阪版) |
NEWS: このページの紹介が3月9日付朝刊読売新聞(左上)阪神版、(左下)大阪版に紹介されました。
記事の内容は見出し以外は同じです。
写真をクリックすれば記事が拡大表示します。 約200Kbあります。しばらくお待ちください)
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| また新聞記事の反響で多くの方々からメールをいただきました。なんとその中に当事マリリンモンローから花束をもらった方の紹介をします。ご本人の承諾を得ましたので、大阪の小澤朋子さんからいただいたメールで彼女のお父さんの話を紹介させていただきます。 |
父の名前は小澤古志郎(こしろう)といいます。56歳。
”当時の伊丹空港はわずか2〜300坪程の四角い建物だったと思います。 そして滑走路に出るのにわずか7〜80mの柵で仕切られていたと思います。
私の家は曽根崎新地で料理屋をしており、朝日新聞社及び住友系の会社の偉いさんが沢山お見えになっておりました。そのうちの一人を仲居頭と弟と3人で、空港に見送りに行き、その柵の横に置いてあったイスに腰掛け、お客様が目的の飛行機に向かって行くのを見ていたと思います。その時にひとかたまりの集団が滑走路の方より歩いてきました。うろ覚えですが10名程度だったかな?その中にマリリン・モンローがいたんでしょう。そして、空港ビルに入る前に座っている私に新聞社の方からもらった花束を渡してくれました。何もわからなかった私は(その頃10歳だったと思います。)家に帰り姉に話しますと、「あんた、それマリリン・モンローやで」と言われました。が、あまりピーンときませんでした。その後何年かたち、あーマリリン・モンローだったんだな、と思うようになりました。誰に言っても信じてもらえず、この新聞記事を見、みんなに「それ、見た事か」と自慢しております。”
ということです。なんだか、その時の光景が目に浮かぶようです。
この話は、娘の私が小学生の頃から聞かされていたことです。 |
Glenn Reedさんから送られてきたメールに当時空港入口付近の見取図があります。ほとんどがバーや飲食店でした。当時の町並みをよくご存知の方教えてください。
(左図の表示参照番号です。)
| 1.Itami AB Sign(空港基地表示) |
11 The Coconut |
| 2 The Cherry |
12 The Blackout |
| 3 The Rose |
13 The Stork Club |
| 4 New Friends Restaurant |
14 The Happy Hour |
| 5 The Four Aces |
15 The New Yorker |
| 6 The Chicago |
16 The Hawaii |
| 7 Train Station |
17 The Itami |
| 8 The Ginza |
18 The Harem |
| 9 The Pacific |
19 Itami Main Gate(空港入口) |
| 10 The Bolero |
Informed From Mr. Glenn Reed,
May 1st 2001 |
(クリックすれば図が拡大表示します。)

当時の写真がそのままカラープリントコピー処理されて送られてきました。右側4人の一番左が当時戦略物資の輸送任務に従事していたGlenn Reed氏。
6127th Air Terminal Group(クリック第6127空港隊参照のKoreanWarのページへ)
また当時駐 留していた方からのメールで知った事ですが空港周辺にも様々な施設があり、特に大阪の浜寺公 園には米軍住宅施設等もあり彼らのリゾート地になっていたそうです。
機会があって浜寺公園の歴史について、(財)日本造園修景協会大阪府支部の平成4年5月22日発行「おおさかの修景」設立10周年記念誌掲載において清水正之氏が書かれた「歴史からみる浜寺公園」のコピーを入手しました。記述された内容から引用致します。
「昭和21年10月から進駐軍の住宅用地に選定され、約1700本もの松が伐採された。そして日本人立入禁止、海水浴場閉鎖となった。昭和28年になってやっと海岸の接収が解除され海水浴場が再開。しかし海辺に出るには米軍住宅地を迂回しなければならなかった。 昭和32年6月に大阪調達局長より近畿財務局長あてに「FAC4048浜寺公園住宅地区の返還について」の通達があり、大阪府は近畿財務局長に府営公園として使用申請等の手続きを経て正式に返還されたのは翌年の2月であった。」 松林の美しい浜寺公園にとっては受難の時代でもありました。
(左の写真は「おおさかの修景」誌より。右の写真は公園パンフ表紙より。)
伊丹市立東中学校内にあるこの建物は?
Do you know what was this house, warehouse or something else?
現在当時駐留されていた米軍関係者に聞 いていますが色々と答えがあります。
(left picture) Map of location地図 (click)
倉庫、弾薬庫あるいはGCA(航空無線誘導室)など様々な事を聞きますが、どなたかご存知でしょうか。
左のパッチは1956年に行われたボーイスカウトのInvitation Campの記念ネッカチーフです。スカウト関係者でこの時のイベント情報をお持ちの方。ご一報ください。
元伊丹市稲野町に住んでおられた Mr.John Szalay さんからの情報でアメリカのネットオークションE−bayに1957年の記念のライターがあるとのメールをもらいさっそく競り落としました。何の記念に作られたかは不明。
"Itami A.B. JAPAN 67th RECONNAISSANCE TECHNICAL SQUADRON 1957".

50年代に伊丹ではなく三沢基地に駐留されていたSneadさんからメールをいただき当時彼が駐留した日本国内の基地の写真や軍票、身分証明書などの写真が送られてきました。
現在はフロリダのTampaに住んでおられますが多くの写真を編集してホームページで紹介されています。三沢、稚内、横田、立川、またフィリピンの基地など多くの写真を見ることができます。
http://geocities.com/us2002d/AboutMe.html (クリック)
http://geocities.com/us2002d/MisawaNorthJapan.html (クリック三沢基地)
Military Payment(軍票) 身分証明書
 
三沢基地 稚内兵舎. 

当時基地の施設管理関係の将校であったアーサー・J.ノルデンさん(現在86歳)へ伊丹市長から贈られた感謝状。
このホームページをノルデン氏のご子息ジョン・ノルデン氏が見つけられメールをいただきました。
本人の父親が当時地元の市長から護岸工事に貢献して感謝状をもらったとのことをメールで知りました。
もし写真で送れるなら確認したいので、ぜひともその写真を見せてほしいとのお願いしました。
現在イリノイ州に在住されているジョン・ノルデンさんも当時は家族で刀根山の米軍住居地に住んでいたことがあり、わざわざバージニア州まで遠路1000km以上もドライブされ今も壁にかかっていたこの感謝状を取りににいったとのことでした。そして今の猪名川の写真を送ったところご本人の話では神戸へ買物に行く時に通った橋や道路のことなどを思い出し、今ではすっかり変わっているのに驚いたとのことでした。当時の周辺住民にとっては当然朝鮮戦争の支援前線空軍基地は迷惑な存在だったかも知れませんが米軍はこのような公共工事や周辺都市の火災の際には応援の消防車を出すなど地元へも様々な貢献をしていたことがわかりました。
追伸
ジョンさんからのE−mailで7月2日にお父さん(アーサー・ノルデン氏)が亡くなられた事を知りました。衷心よりご冥福をお祈りいたします。

左の書籍はノルデンさんから1955年の第67戦略偵察航空隊(The 67th Tactical Reconnaissance Wing)の記録誌が送られてきました。せっかくお父さんが大切にされていたので返送したいと返事しましたが地元の図書館にでも寄贈してほしいということで博物館へ寄贈しました。当時の基地内の生活や大阪の町並みなどが掲載されています。
写真はクリックすれば拡大表示します,
ー空港入口付近の飲食店や土産物。

当時駐留していた方もすでに高齢化され知る人が少なくなりその記憶が風化していきそうですが、このページがきっかけで多くの方からメールをいただいたりして当時の世相を少しでも知ることができた時はうれしいものです。
さっそくノルデン氏の情報をもとに市の広報誌(縮小版)を探していて昭和29年5月15日号市民と市政代47号に地元の苦情処理(基地からオイルが用水路に出る苦情)記事でなんとノルデン氏の名前を見つけました。 また当時は定期的に地元自治体と基地問題での協議があったみたいです。
記事の第6回日米協議会の中で論議されているRRセンターはレクレーション・センターといっても接客的な施設で当時は奈良にあったみたいです。
写真はクリックすれば拡大表示します,。(左から伊丹市広報「市民と市政」第47号、44号、50号)
再び.Glenn Reed さんから、本人の写真と戦友会でDougさんや奥さんとの2ショットの写真や当時の基地内の地図などの資料が送られてきました。

Mr.Glenn Reed,Dec.1951
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Left: Doug Moreace
East Rapids, Michigan
Stone Mountain,Vermont
Sept.2003
Right:Glenn Reed
Rochester,Massachusetts
Note:
Doug and Glenn were at Itami
Air Base 1952-1953.
We met at a Air Force Reunion
in 2000. We had not seen each other since 1953. |
Mr. & Mrs. Glenn Reed(Verna)
Sept. 2003
下の地図をクリックしてください.(拡大)
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オハイオ州に在住のジョンさんからメールをいただきました。彼は退役後日本でのご自身の経験を紹介するホームページ(John-San's Asian Tour of Duty)を開設されております。 彼のサイトでは昨年までは当時勤務されていた神戸のEast Camp付近の写真や当時の日本の雑誌、風景など多くの写真をアップされていましたが、奥さんの看病ならびにご本人の健康のため現在はゲストブックのみ残っています。
(英語版で彼のメールの一部を紹介しています。)
また50年代に同じく仙台にあった米軍キャンプにおられたリンカーン大統領の末裔にあたるリンカーン氏のホームページもこのサイトで見つけました。当時の仙台の町並みや人々の生活風俗など興味深い写真が満載されています。 |
そしてこのゲストブックから幸いにも私のホームページを見つけさんられたエドさんは現在グアムにおられるます。そのエドさんからのメールをいただきなんと当時彼とおなじ神戸のEast
Campで勤務していたことがわかりました。
当然ながら当時の基地内の食堂やPX(売店)などでとうぜん出会っていたと思われることから、その後お二人は50年ぶりに旧交を温められJohn氏が掲載されていた写真等をCD-ROMに焼いて送っていただきました。
私がいただいたCDの写真ですが、すべて紹介するためには容量がかなり大きくいましばらく編集に時間がかかりそうです。私のホームページをきっかけにこのような出会いがあったことを嬉しく思います。
またエドさん(左下の写真)から三宮駅とトーアロード付近にあり当時将校用の宿舎となっていたFUJI-Hotelについて今どうなっているのか聞かれています。もし神戸の方で当時の事情をご存知でしたら私までメールください
エドさんの思い出 "TWO OLD SOLDIERS "全文表示(PDF)
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追記:”伊丹空港が映画で紹介されています。”
私の伊丹空港紹介ページ(英語版)を見つけられた米国インディアナ州にお住まいのWarrick Barrett氏からメールをいただきました。
彼は若いころ1959年(昭和34年)に見た映画”The Hunters"(1958年の作品)で、当時は伊丹空港が映っていたことをまったく気にしなかったのですが、その後数年前に改めてDVDで見て映画で映っているのは伊丹空港であることがわかったとのこと。ちょうど見つけた私のページで50年代の伊丹空港を紹介していたためその話をメールでいただきました。ご本人にお願いしたところわざわざ米国からその映画のDVDも送っていただきました。
メールによると、これまでにもoccupational medicine(職業病医学)の分野で何度か来日された経験もあり歴史が好きで、飛騨高山、松江、明石、大田、冨山など東京、大阪だけでなく日本の地方都市にも来たことがあり、今後もまた機会があればぜひとも日本にも来たいとのことでした。伊丹空港が舞台となった映画があることを知り私も嬉しく思いました。
(写真は“The Hunters” FOX WAR CLASSICS DVD c20th Century Fox社のDVDより引用。)
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そのDVDを映して見ると最初のシーンは青々とした六甲連山を背景に空港に着陸した飛行機から黄色の文字で「Welcome to Itami Air
Force Base Japan」と書かれたタラップで降りる主演俳優のロバート・ミッチャムが空港基地内の事務所に入るところが映されています。
このDVDについて調べてみると日本では”The Hunters”ではなく「追撃機」というタイトルで20世紀Fox社から、すでに昨年10月に日本語版も発売されていました。内容は朝鮮戦争当時の物語です。
<< あ ら す じ >>
『眼下の敵』のディック・パウエルが監督・製作を務めた戦争ドラマ。朝鮮戦争のさなか、第二次大戦の勇者・サビルが伊丹空軍基地に赴任する場面から始まります。彼は戦闘の恐怖から酒浸りとなったアボット中尉の妻と急接近する。しかし、ミグ戦闘機と空中戦して敵の真っ只中にパラシュートで不時着、命からがら危機突破して敵地から帰還をはたす。当時としては実写を交えた空中戦の場面は圧巻です。トップガンを彷彿されるジェット機の空中戦シーンでは撮影にあたり空軍が協力したとか。58年当時の作品としてはよく出来ています。
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まだまだ当時を懐かしんで伊丹基地でゆかりのあった米国在住の方からビデオやホームページの紹介など情報をいただいていますが順次紹介していきます。
下の写真は1951年に伊丹空港で撮影されたPB4Y-2 PRIVATEER (700機しか製造されていないらしい。)で海軍VP−28隊が使用していたもの。今年20年9月にラスベガスでReunion(同窓会)をするとのこと。私も(ジョーク?)招待されましたがとても出席できません。

 京都新聞に伊丹空港の写真が掲載される。
京都新聞の河村氏からこのページの伊丹空港の写真の掲載について照会がありました。このサイトで伊丹空港関係のリンクから多くの方に見ていただいているのを嬉しく思いました。(記事をクリックすればPDF形式で拡大表示。)
そして平成20年7月30日付の掲載紙をいただきました。京都の名物観光ガイド「ジョー岡田が見た戦後」として京都文京大の鵜飼正樹准教授の執筆で「サムライ日本ショー・ジョー岡田が見た戦後」のタイトルで京都新聞・文化欄に毎週水曜日に約25回の予定で連載されています。
そういえば以前に私も京都の二条城でちょんまげ姿で風変わりな外人観光ガイドさん見かけてましたが、どうやらその方が岡田氏だったようです。
「人は思い出を希望として、未来に託す動物である。」といわれますが、些細なことでも、このホームページを通じて何らか空港に縁があり素晴らしい思い出を持っておられる方から様々なメールをいただければ、何よりも嬉しく思います。
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原爆投下、マッカーサー証言などWWIIについての日本側の見解など
(1951年当時の空港のページへ)
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