SMCJ(ScoutingMemorabilia Club of Japan)
   日本メモラビリアクラブ 中山基氏のエッセー集

       不朽の名作「わが道を貫く」

 ボーイスカウトの指導者が集うところでは、いつもこのスカウトソングが歌われる。この歌には日本連盟の黎明期に活躍された、多くの先輩達の思いが込められている事を知る人は意外と少ない。今回はスカウトソング「わが道を貫く」を紐解いてみたいと思います。明治の初期に活躍された三島通庸子爵(三島総長の祖父)は、県令(県知事)として鶴岡(現 山形県)に赴任途中、那須の不毛の大地を見る。帝都「東京」の近くにあるこの原野を、将来の帝都の食糧基地として、又、戦時に備える食料供給基地としての活用を考えておられた。

 その後福島・栃木の県令を歴任され、那須の原野を見る度に思いがつのり土地の有力者とも語り合って、明治13年に自ら1037町歩(1028ヘクタール)の原野の払い下げを受け、幾多の困難を乗り越えて開墾にあたり、同18年には疏水を竣工させてようやく農地としての前途を築いた。
 那須野ケ原における最初の大農場である。那須開墾が異常な困難に直面した時、或る人が「三島さん、こんなに面倒で困難な農作より植林の方が経済的にも有利だから、植林に切り替えてはどうですか」と勧めた時、三島子爵は「自分は自己の利益のためにするのではない、
自分は、人を植えてこの土地を将来の日本のために開くのが目的である」と答えられた。其の時に詠まれた短歌が、「神代より 荒れし那須野を拓きつつ 民栄えゆく 村となさなん」である。那須野の開墾に従事した多くの入植者の中には、困難を極めた開拓事業のために犠牲になる者も続出した。
 三島子爵は共に労苦を惜しまず開墾の犠牲となった人達も手厚く葬り、その御霊百三十三命を永久に祀る為に社を建立したのである。那須野営場でウッドバッジ実修所が開設される時の集合場所「三島神社」である。この三島農場は昭和25年10月、日本連盟那須野営場となった。               
(三島神社と拝殿)

 昭和23年2月西那須野の三島家別荘にて、第2回実修協議会が開かれた。戦後のスカウト運動の再建について、白熱した議論がなされた。参加者には三島通陽・古田誠一郎・尾崎忠次・高橋泰賢・山口勝治他で有り、兵庫連盟からも杉村伸・河手正平が参加した。

獅子
吼のごとき議論で会場はさらに白熱化した。会議場所は那須の本館大広間で、縁側のガラス戸はその熱気で曇っていたが、ふと外を見た山口氏はガラス戸越しに三島農場に降る雪の情景を短歌にした。 (那須の三島家別荘)   

       

 「白雪ふりつむ  那須野が原に 
             集いてきわめん   スカウトの道」

 戦後の困難な時期に、いかにして日本のスカウト運動を復活させるのか、困難を極めるであろうこの運動の再興に立ちあがった盟友に、勇気を持って前身するに相応しい作詞を2番に求めていた山口は、大広間の床の間に掛かっていた三島通庸子爵の短歌を拝借し、 

  「行く手は  はるかに  荒れすさむとも

         貫きてこそ  道となりぬれ」 と詠み、

 那須の三島家に集いしスカウタ―の心を一つにし、困難に直面した時は誰とはなくこの歌を口ずさみ、勇気を奮い起しながら邁進してきた。
 
今もなお、私達の魂が強められているのである。それは、この歌を通じての先人からの息吹が伝わるからであろう。

                        兵庫連盟  中山  基

※スカウト歌集では、「もえたつ緑の・・・・・・」で始まっていますが、本来は「白雪ふりつむ・・・・」が1番です。ソング指導の折にこの様なエピソードをお伝えいただき、先人の労苦を偲びながら歌うようにしますと、この運動の歴史を実感できますよ。