日本ボーイスカウト兵庫連盟の国際交流
    International Exchange Program of Hyogo Scout Council, S.A.J.
 
 庫県ボーイスカウト振興財団の宝順丸の贈呈事業 (追記H18.7.18

On June 14 2006, our contingent for donation of replica ship "Hojun-Maru" visited to Makah Cultural & Research Center.
 
 2006年6月14日に兵庫県の姉妹州である米国ワシントン州の最北端カナダ国境近くのフラッタリー岬に位置するニアベイのマカ族博物館Makah Cultural & Research Center)で贈呈式を行うべく日本ボーイスカウト兵庫連盟からから宝順丸(和船)が送られました。

(写真は連盟長(井戸兵庫県知事による。出航式。)

 今回の贈呈事業にはシアトルにあるワシントン州兵庫県事務所をはじめとして、兵庫県国際交流協会、(株)アシックス、日本郵船など各界各方面からの協力を得て宝順丸の搬送、贈呈事業が無事終わりました。
ボーイスカウト兵庫連盟からは山田理事長はじめ8名の派遣団を結成しました。派遣団一行は6月9日から18日の予定で贈呈先のマカ族博物館だけでなく三吉記念碑のあるフォートバンクバー国立史跡公園はじめ、カスケードパシフィック連盟本部や連盟所管の野営場の見学、Mt.ベーカー連盟やこれまで日米合同訓練などでゆかりの深いシアトル53隊の関係者フランク西村ご夫妻と再会を果たしました。
 今後ますます国際交流が広がり兵庫連盟のスカウトがこれら西海岸のキャンプ場へ遠征していくことも考えられます。今回の派遣はそのような意味から兵庫連盟にとっても友好交流の架け橋となったことでしょう。
 下の記事は6月12日付けのポートランド市の地元新聞(Columbian紙)で三吉記念碑でのセレモニーが紹介されました。会場にはマクドナルド友の会のジム・モックフォード氏も来られて全員で記念写真をとりました。またこれまで三吉碑を管理いただいてきましたトレーシー・フォットマン公園管理長へこの機会に連盟から感謝状を贈呈いたしました。
(Courtesy of The Columbian Publishing Co. quoted The Columbian June 12 2006)
下記のColumbian紙の記事翻訳記事(いずれもPDF)

*三吉記念碑・ボールドウィン野営場
 

  6月14日の贈呈式を伝えるに関する現地新聞(Our Peninsula紙6月16・17日付)
 
”Japanese honor Makah rescue”
  -Hospitality a matter of life, death for 3men blown adrift in 1834.
  
新聞の見出しは日本人がマカ族の救助を称える
  −1834年に漂流した3人にとってホスピタリティ(もてなし)は死活の問題。」
 との見出しで書かれています。記事内容は宝順丸漂流の経緯が紹介されています。またサブ見出しには昨年8月にマカ博物館へ送った井戸兵庫県知事(連盟長)の贈呈メッセージから引用して、
「We know it was not a simple thing for the Makah to take in these strangers, We must praise the spirit of each side in overcoming the hardships of different cultures.」

(私たちはマカ族の皆さんがこれらよその見知らぬ者を引き取ることは簡単なことではなかった。ことはよくわかります。異文化での艱難を乗り越えるという精神もまた賞賛しなければなりません。)
との紹介があり、また贈呈した宝順丸をExquisite in detail (細部にわたって精巧につくられたもの。)と絶賛して宝順丸の製作者の湊隆司氏の紹介があります。

 山田理事長以下8名の派遣団の皆様お疲れ様でした。
 いずれにせよ今回の宝順丸の贈呈を通じて博物館に訪れる多くの人々に史実を紹介できること。また姉妹州として兵庫県とワシントン州のの関係を広くアピールできること、マカ族の皆さんには美浜町だけでなく兵庫県もまた交流の機会がもてたことは、今回の事業は非常に意義深くまたすばらしいことです。
(記事をクリックすれば拡大表示します。)

 宝順丸上陸地 Cape Alavaの海岸。  マカ族の方を交えて記念撮影
 フラッタリー岬でのトレイルコース展望台  マカ博物館展示場前で記念撮影
 
 (宝順丸の贈呈について) 
 宝順丸は1832年尾張の小野浦(現美浜町)を江戸に向けて出帆したところ遠州灘で台風に巻き込まれそのまま14ヶ月太平洋を漂流し、生き残った乗組員3人(岩吉、音吉、久吉)が米国西海岸のフラッタリー岬に漂着し、アメリカ原住民マカ族に捕らえられました。
 ジョン万次郎よりも早く最初の北米大陸に足跡を残した日本人として、音吉(14歳)ら異国での水夫3名が波乱万丈の人生をたくましく生き抜いた物語は、感動的であり、三浦綾子著「海嶺」などの小説でもとりあげられています。
 彼らは異国の地で様々な逆境を乗り越え逞しく生き抜きました。あまり知られていませんが、世界情勢が開国をせまる幕末の日本で帰国の願いもかなえられず異郷の地で漂流民の救助や日本最初の聖書翻訳など彼らの果たした役割は多大であります。
 青少年の健全育成を推進するボーイスカウト運動にも通ずるものがあり、広く史実を顕彰するため、日本ボーイスカウト兵庫連盟は1989年に現地のシアトル第53隊との交流を契機に記念碑を建立し史実を顕彰しました。
 今回はこの交流事業に続いて、兵庫連盟は兵庫県赤穂市文化財選定保存技術者である湊隆司に精巧な和船の製作を依頼し、
の深い漂着地にあるマカ族博物館へ模型船を寄贈するものです。

 今回の宝順丸の寄贈事業と併せて兵庫県国際交流協会からの補助により兵庫連盟が作成した英文紹介パンフ。「Symbol of Cultural Bridge between Japan and the U.S.」(日本と合衆国を結ぶ文化の架橋)三吉の漂流物語やラナルドマクドナルドまた関係するモニュメント等の説明が詳しくされています。原本のパンフはB4サイズの両面三折で印刷されています。
       (各ページをクリックすれば拡大表示します。) 
 This leaflet describe the brief history of "SAN KICHI"(three shipwrecked sailors) , Ranald MacDonald who was a first English Teacher in Japan and concerned monuments.  
 (Click each page for displaying a large size.) 

Page1 Page2 Page3
Page4 Page5 Page6
              -Special thanks to Hyogo International Association.-


 1989年8月アメリカ合衆国のワシントン州建州100周年記念式典において日本ボーイスカウト兵庫連盟は三吉顕彰記念石碑を寄贈その除幕式が行われました

 この記念石碑について皆さんに紹介するとともに漂着水夫である三吉(岩吉、久吉、音吉ら3人の総称)たちの数奇な運命を通じて国際交流・異文化理解の大切さについて考えたいと思います。

 
日米友好の絆となる顕彰碑は今から170年前の江戸幕末に尾張の国知多郡小野浦の宝順丸が難波し14ヶ月間も太平洋を漂流した後、米国ワシントン州北西部フラッタリー岬に漂着した3名の船乗りを顕彰するものです。
 1834年に日本人としてはじめてアメリカの土を踏んだ3人の漂着水夫、岩吉、久吉、音吉という当時15,16才の少年たちが14ヶ月の漂流に耐え抜いたことが人々に大きな感動と勇気を与えるものであり、この史実を後世に伝えると共に、ボーイスカウトアメリカ連盟シアトル第53隊との交流を記念し、この史実保存のためにワシントン州とオレゴン州境にあるフォートバンクーバー国立史跡公園内に50年後に開封するタイムカプセルとともに顕彰碑が建立されました。


  建立の経緯
兵庫県はワシントン州と姉妹県にあります。 そしてまた県レベルだけでなく、県下各市においても州内の各都市間で姉妹都市交流も盛んであります。
 シアトル市と神戸市は1963年から姉妹都市交流をしており、西宮市とSpokane市はじめ篠山市WallaWalla 市、社町とOlympia 市、西脇市とRenton 市、柏原町とKent 市などすべてワシントン州内の市であります。

 ワシントン大学にはアメリカ一の日本研究センターがあり兵庫県内の各市町だけでなく日本全国で州内18もの市町が姉妹都市交流をしています。
 今ではこの石碑がワシントン州の観光史跡にもなり、特に地元シアトルポスト紙でも音吉が漂着後に聖書の日本語訳に貢献した功績があり、キリスト教の日本国内普及に重要な役割を果たしたことを強調するなど極めてシンボリックな存在として取り上げられました。
 三吉顕彰記念石碑はワシントン州と隣接するオレゴン州の州境に近い位置のコロンビア川沿いにあるフォートバンクーバー国立史跡公園内にあります。(右上図メモ印参照。)みなさんもポートランドやシアトルへ旅行される機会があればぜひ一度立ち寄ってみてください。
 また現地では三吉と縁の深い人物、幕末において長崎で日本人にはじめて英語を教えた米国人といわれるラナルド・マクドナルドを顕彰する「マクドナルド友の会」もあります。
 はるか昔に我国が幕末鎖国時においても、おどろくべきことにこのような漂流民による交流が存在し、かれらが後に我国の外交に大いに貢献しました。    
      三吉顕彰記念石碑設計図面。


建立を伝える1989年8月2日付
現地新聞。Columbian紙      
  




記事・図面をクリックすれば拡大表示します。

 1999年7月三吉顕彰記念碑建立十周年記念式典に出席の兵庫連盟代表団を報じる北米報知新聞の記事。
  現地の新聞報道内容によると、今回の式典にはボーイスカウト兵庫連盟より50名のスカウト代表団(苦瓜一夫団長)はじめ、シアトルボーイスカウト連盟、ポートランドに本部を持つキャスケード・パシフィック・ボーイスカウト連盟、マクドナルド友の会等の代表などあわせて100名近い参列者がありました。
 報道されるところによると7月23日にフォートバンクーバー国立公園内において、日米両国旗にはさまれ「友好親善」と刻まれた石碑を前にスカウト代表団一行は楕円形に整列し敬礼を行いました。

 また三吉ゆかりの愛知県美浜町の斎藤宏一美浜町長からのメッセージが披露されました。
 当日献花の一役を担った久村美奈子さんは三吉と同郷の美浜町出身の留学生でポートランドの英語学校に通っていて、感想を聞かれ「このような式典に参列できて光栄です。」と感動して語った。
 そして日本ボーイスカウト兵庫連盟、貝原俊民連盟長、でもある兵庫県知事から、マクドナルド友の会初代会長(故人)冨田正勝氏をはじめ、三吉の史実保存・広報に貢献した人たちに対し感謝状ならびに記念品の伝達が行われました。
  *北米報知 1999年7月28日(水)報道記事より引用。   
三吉記念碑と兵庫県について
 日本ボーイスカウト兵庫連盟から贈られた三吉記念碑は漂着した日本人船乗(岩吉、久吉、音吉を総称して三吉という。)を顕彰して兵庫県の姉妹州であるワシントン州建州100周年祭に際して寄贈されたものであります。
 兵庫連盟は現地のボーイスカウト連盟との交流だけでなく、3人の若者は逆境にあってなお希望をもって生き抜いた逞しさとその勇気はスカウト精神と通ずるものがあること。 そしてこの史実を広く日米両国民に伝え、姉妹州・県の関係を超えて日米の友好の絆となるシンボリックなものとすること。またこの地の出身者で幕末の鎖国下の日本に小船で漂着しその後兵庫県とも縁のある森山栄之助(多吉郎)はじめ幕末のオランダ語通詞14名に英語を教えたラナルド・マクドナルド(日本で最初の英語教師)がこの地の出身であること。などがその理由であります。
  それはラナルド・マクドナルドが強く日本への憧れを持ったきっかけは三吉らとの出会があったからだと言われています。
(真偽のほどはわかりませんが時代背景や時期も適当であり参考文献等では以下の記述があります。)

Pacific Rim Adventure誌の Exciting Travel for Ranaldより引用。

 In his notes written several years after his Japanese adventure Ranald does not directly mention his fascination with the tale of Japanese castaways. However, historians surmise that his profound curiosity in Japan began at this time.
 日本の冒険から数年後に書かれた彼の記録にはラナルドは、 日本の漂流民の物語に魅了されたことは直接的には述べていない。
 しかし歴史家たちは彼の日本に対する深い好奇心はこの時期に始まったと推測している。 
(参考翻訳:制作者

  後にペリー提督率いる艦隊が日本に開国を迫った際に、外交交渉に当たり通訳として大きな功績を残した人物といえば森山栄之助(多吉郎)ですが、彼はまた大阪町奉行副奉行として兵庫港を開港し外人居留地を造成し、英国、オランダ等6ヶ国の領事設置に尽力し兵庫県発展の礎となった人物でもあります。

 結論的に説明しますと、はじめに岩吉、久吉(きゅうきち)、音吉の3人の漂流水夫の物語にはじまり、ラナルドマクドナルドと彼らの出会いがあって、それがマクドナルドが日本へ強い憧れを持つ動機となり彼が日本へ密航することになりました。そして不運にも日本での幽閉生活となり、そこでの英語教習を通じてオランダ語通詞であった森山多吉郎との出会いがありました。 また森山多吉郎は兵庫(神戸)港の開港にゆかりの深い人物でもあります。 それゆえに三吉顕彰碑と兵庫県がゆかりがあることがわかっていただければ幸いです。
 
 なにはともあれ、様々な経緯や縁があり、兵庫県の姉妹州へ記念すべき建州100年という年にボーイスカウト兵庫連盟がこの三吉顕彰碑を建立することとなりました。  


森山 多吉郎(栄之助) もりやま たきちろう
1820(文政 3)〜1871(明治 4)
◇幕末・明治維新期の通詞。名は憲直、初名は栄之助。長崎の代々の通詞。1848年に蝦夷の利尻島で捕えられ長崎に送られて来た米国捕鯨船員マクドナルドより英語を習う。
ペリー浦賀来航のときも通詞をつとめた。ペリーは森山の語学力と共にその人柄も高く評価し、 『日本遠征記』にその人柄を称えている。
文久元年(1861)の遣欧使節団には福沢諭吉や福地源一が随行したが、両人の語学力に不安を感じた当時の駐日イギリス総領事オールコックの強い要請により森 山が加えられました。
 森山の墓所は東京の本妙寺にあります。

明治四年三月十六日没   清心院茶山日勇居士
名称:徳栄山總持院 本妙寺
(クリック本妙寺のページへ)
所在地:東京都豊島区巣鴨5-35-6


ラナルド・マクドナルドについて RANALD MacDONALD)
 ラナルド・マクドナルドはオレゴン州アストリアで原住民チヌーク族インデアンの母とスコットランド人を父として生まれました。生後数ヶ月後には母が亡くなり、父の再婚によるスイス人の継母に育てられました。彼の青春時代を過ごした当時の社会では混血であるが故に受けた理不尽な屈辱から、自分のルーツを求めるようになりました。
 そしてマクドナルドは見知らぬ東洋人三吉らとの出会いから、日本に対する興味がますますつのり、鎖国状態であった日本へ何とか行きたいという強い衝動が彼の運命的なものとなって、ついにその想いを遂げるため、銀行員を辞めて、鯨漁船の水夫となり航海途中に小船に乗り換え漂流を装い日本への密航となりました。

 自分の母方のルーツであるアメリカインデアンの血筋をもった日本人への憧憬と併せて、彼が多感な時期に漂流民として初めてみる日本人である三吉たちとの出会い。そして混血であるが故に時として不合理な境遇におかれた体験をする中で、彼は何か憧れるものを感じて決心し、その後彼は家業を継がずに、船乗りになり日本はじめ7つの海を航海することになりました。
  日本人に初めて英会話を教えたといわれる米国人ラナルド・マクドナルド。彼は日本に憧れ江戸末期の1848年に捕鯨船の乗組員になり日本近海に近づいた時に、かねてから決心していた通り、小船に乗り移り遭難を装って北海道の利尻島に単身上陸、ついに念願の日本上陸を果たしました。

 しかし当時の日本は鎖国下であり、アイヌ住民に発見されすぐに松前藩にて取調を受けた後、彼は船に乗せられ、港々に立ち寄りながら、船ははるばる長崎を目指しました。
  この船には、通訳兼引き取り役として森山栄之助(多吉郎)という二十九歳の若者が乗り込んでいました。
 彼こそは後に日本の英語学の開祖と言われ、ペリーの来航時にも通訳筆頭を務めた、森山多吉郎の若き日の姿でありました。 (右の顕彰碑は長崎市上西山町にあり当時マクドナルドが幽閉されていた「大悲庵」がこのあたりにあったそうです。)

 時が移り幕末の日本にやってきたペリー艦隊に、時の幕閣は右往左往。その交渉で行われた日米和親条約は明らかに不平等条約であります。無理難題が多く出され当時の国力の差は歴然でありましたが、それでも森山多吉郎は日本に開国をせまられた時において武士としての尊厳と国を護る強い意志と気概により、高圧的な開国要求にも毅然として対処したと言われています。
 その交渉結果としては一方的に米国側に妥協させられたとはいえ当時の弱肉強食を当然としていた国際常識の時代で、しかも中国でのアヘン戦争での惨状が伝わっていた中で、日本がともかく植民地とならず最小限の譲歩で解決できたのは、その埋もれた史実として、マクドナルドから英語を習った森山多吉郎(栄之助)、そして帰国漂流民であったジョン万次郎の活躍、そして何よりも事実とすれば三吉らとマクドナルドとの運命的な出会が大いに関係しています。
  森山はその後幕末期にふりかかる数々の外交交渉場面に、通訳(主席通詞)として重要な役割を果たします。伝えられるところでは彼のオランダ語はオランダ人より美しい発音だったそうですが、英語の方は辞書を片手になんとか役目をはたしていた程度と言われています。
 ペリー艦隊一行の隣室に控えていて影で日米交渉に協力していたのが
中浜(ジョン)万次郎といわれています。ジョン万次郎は、アメリカで教育を受けたと言う理由で公式の場には出ることが許されませんでした。それでも、当時としては国内での英語通詞において森山の右に出る者はいなかったといわれています。
 幕府がこの時代に英語の通詞の必要性を感じたのは、たび重なる外国船の日本近海での出没や捕鯨船が頻繁に寄港する事態が起こっており、また諸外国からの開国要求が多くなってきたなど様々な理由が言われていますが、やはり言葉の壁で大きな衝撃を受けた
フェートン号事件の勃発が主な要因となっています。
 
フェートン号事件とは、1808年8月15日、オランダ国旗を掲げて長崎湾に偽装したイギリスの軍艦が突如侵入し、それを母国船と思いこんで駆けつけ たオランダ商館人を人質に、飲料水や食料を要求したという事件が起きました。
 これが「フェートン号事件」と呼ばれるも のであります。この海賊的行為に対し、長崎奉行は激怒しましたが、言葉の問題などで何ら有効な手が打てなかったために、やむなくイギリス鑑の要求を呑むことに なりました。フェートン号は、3日目の朝に、悠々と出港していきました。
 奉行松平康平らは、国法を守れなかったということで切腹しまし た。これがきっかけとなり、英語の必要性を痛感した幕府は長崎のオランダ通詞(通訳のこと)達に英語の研修を命じました。
 
現在でも当然のことですが外交交渉においては自国の国益を考えて交渉にあたることは独立国の尊厳を維持する上て最重要事項です。世界中の列強各国の軍事力で圧倒されていた当時の政府でさえもしっかりした外交感覚をもっていたと言えます。
  幕末の激動の時代に三吉達の漂流物語と日本の開国、ラナルド・マクドナルドの日本上陸そして森山多吉郎との出会いなど、そこには日本にとって激動の幕末期における数々のドラマがあります。
 同じ境遇にあった漂流民ジョン万次郎の活躍は今ではよく知られていますが、それよりも7年も前の1834年に、すでにこのような史実があったことは驚きであります。

 日本でもマクドナルドが上陸した北海道の利尻島には顕彰碑があり、同地に1987年に木製の碑が建立されたが強風で倒壊し、町と利尻ロータリークラブによって1996年に 再建されました。
 記念碑の横にはマクドナルドの数奇な運命を描い た吉村昭氏の小説「海の祭礼」の文学碑があり
「マクドナルドは、はげしく手をふった」と、その一節 が刻まれています。
参考:利尻町のホームページで紹介されています。

 国際交流、異文化理解の重要性が言われる昨今ですが、彼らの体験したことが日米交流の歴史に大きな影響を与えたこと。また三吉らがその後マカオに渡りそこで聖書の翻訳に尽力し、日本最初のヨハネ伝に大きな貢献したことなどを紹介致します。より詳しくその内容について興味がある方はぜひ以下の関係書籍を一読してください。
  *特に田中啓介氏のライフワークとしての史実調査は感動します。

「海の祭礼」 
「史実を追う旅」 
「海嶺」 (上中下)
「にっぽん音吉漂流記」

「奇談・音吉追跡」
 吉村 昭
 吉村 昭 
 三浦綾子 

 春名 徹 
 田中啓介
文春文庫   89.11
文春文庫   91.02
角川文庫   86.11
中公文庫   88.11

日キ販    03.10

ワシントン州スポーキャン(Spokane)市郊外にある
ラナルド・マクドナルドの墓

米国の国立公園のHPより引用。
Ranald McDonald Cemetery
Ferry County, Washington
北緯: 48ー56'51"N, 西経: 118ー45'43"W
Location:
Ranald McDonald's Grave is 18 miles northwest of Curlew Lake State Park on Mid Way Road and is a satelite to Osoyoos Lake State Park.

  墓標には彼の臨終の言葉といわれている「サヨナラ・マイディア・サヨナラ!」から引用された、SAYONARAが刻まれている。

2001年7月19日に墓地を訪問されたMaggie Railさんの訪問記事があります。マギーさんは訪問ページにマクドナルドのことが知れるようになり日本の旅行者が訪れ、彼の功績に敬意をはらい碑の前にはコインが置かれていると訪問記に感想が書かれています。
 マクドナルドの墓地紹介ページ(クリック)

(墓標に刻まれている記載内容。上記のホームページ掲載写真より引用。)
RANALD MacDONALD 1824-1894
SON OF PRINCESS RAVEN AND ARCHIBALD MacDONALD
HIS WAS A LIFE OF ADVENTURE SAILING THE SEVEN SEAS
WANDERING IN FAR COUNTRIES BUT RETURNING AT LAST TO
BEST IN HIS HOMELAND.
SAYONARA-FAREWELL
ASTORIA EUROPE JAPAN THE CARIBOO AUSTRALIA  FT COLVILLE


ラナルド・マクドナルド1824−1894
ラーベン女王とアーチボルドマクドナルドの息子。
彼の人生(歴史)は7つの海を航海し、諸外国を歴訪する冒険の
生涯であった。しかし最後にはすばらしい故郷にもどる。
さようならーFAREWELL
アストリア・ヨーロッパ・日本・カリブー オーストラリア フォートコルビル

 参考翻訳:ページ制作者
下の地図は以前に西宮市の姉妹都市スポーキャンを訪問されたボーイスカウト西宮地区の中山基氏よりいただいたFerry郡付近の地図を画像取り込みしています。

*マクドナルドの墓は左の地図円内の赤丸(Toroda)矢印位置にあります。
18 miles northwest of Curlew Lake State Park on Mid Way Road
*下の地図をクリックすれば拡大表示します。

ワシントン州在住のアツミ・ツキモリさんから上記の場所を教えてもらいました。 また彼女はマクドナルドの事に非常に詳しく彼の命日は8月5日であり、昨年はこの日には親戚だけでなく研究者など多くの人が集まった事など教えてもらいました。
 いただいた左の公園局のマクドナルドのパンフ
(Washington State Parks and Recreation Commission発行)クリックすればPDFファイルで拡大表示します。

 さらにツキモリ女史からToroda市の墓地周辺の写真が送られて来ました。
 墓は8年前建立されセレモニーには日本の総領事はじめ日本人関係者が多く参列されたとのことです。
写真取り込みが古いスキャナーであまりきれいに取り込めていませんが6枚の写真を紹介します。(写真クリック拡大表示。)
墓石のあるOkanogan County の紹介ページ(クリック)

松風英数国教室Report from Kamakuraのページでは、近代の日本の文化、文明に貢献した外国人(英文)が紹介されており、Ranald MacDonaldについても詳しく紹介されています。英文ですが簡潔にまとめられており日本で最初の英語教師マクドナルドをさらに詳しく知る上で必見のページです。(マクドナルドと3人の漂着水夫が書かれています。
 −上記サイトの”unfogettable people to Japan” より引用。)
 In spring of 1833 the MacDonalds moved to Fort Vancouver. He went to school for the first time. At that time MacDonald heard that three Japanese sailors had been saved off the Cape of Fraterly. In 1935 he entered the Redriver Academy, a boarding mission school, where he studied for four years. The school kept by the donation of a company was a place where the students were trained intellectually and morally. At first he got good record at school but he began to realize that he was half-breed between a white and an American Indian.
 ラナルド・マクドナルドのサインはトロダ市のいたるところにあるのでそれをたどれば墓地につきます。
ラナルドのアドベンチャー150周年をたたえて2001年にこのMural(壁画)が出来ました。
 小高い丘の上のインディアンの墓地の中に1つだけ大きなラナルドの墓。彼のアドベンチャーは日本語と英語で書かれており、夏はたくさんの人が訪れます。(日本語の翻訳はツキモリ女史がされたとの事です。)
 壁画1

出生からラナルドの冒険が書かれています。
 壁画2

長崎で英語を教えている説明です。
 壁画3
 帰国後当地での仕事やTorodaの丸太小屋など余生をすごした様子が書かれています。

     音吉の生涯について 
         ー数奇な運命をたくましく生き抜いた男ー

にっぽん音吉漂流の記  愛知県美浜町の歴史・文化ページに詳しく紹介されています。(リンク)
  愛知県知多郡美浜町の小野浦海岸には「音吉、久吉、岩吉頌徳記念碑」があります。 
  この碑は1961年に日本聖書協会と美浜町のライオンズクラブが中心となって作られた。日本人として最初に聖書の翻訳に協力した3人の船員を記念するものであります。

 漂流の様子や三吉の波乱万丈の体験は三浦綾子さんの「海嶺」という小説で詳しく書かれています
この三浦綾子氏の作品「海嶺」で音吉の物語が西郷輝彦、竹下景子主演で映画化されビデオも販売されています。

1819年  ・尾張国知多郡小野浦村(現美浜町)生まれ
 ・千石船「宝順丸」で働く
1832年
宝順丸の遭難
 ・ 音吉ら14人が乗った宝順丸は米や陶器を積んで江戸に向けて出港・ 遠州灘沖で嵐に遭い14ヶ月漂流し、音吉、久吉、岩吉のみ生き残る
1834年
日本人で初めてアメリカの土を踏む
 ・ 米国ワシントン州ケープ・アラバの海岸に漂着。 インディアンのマカ族に保護される。 その後イギリス人の経営するハドソン湾会社に引き取られ、フォード・バンクーバーで英語教育を受ける
 *この間にR.マクドナルドとの出会いがあったと推測される。
1835年
日本人で初めてロンドンの土を踏む
 ・ フォード・バンクーバーの太平洋地域総責任者ジョン・マクラフリンによってハワイ経由でロンドンへ送られる。 1日だけ上陸を許可されロンドン市内を見物。
1835年 
世界初の和訳聖書作成
 ・ ハドソン湾会社本社によってジェネラル・パーマー号でロンドンからマカオに送られる。
 ・ ドイツ人宣教師カール・ギュツラフに預けられ、世界初の聖書和訳に協力
1837年
5年ぶりに日本へ
 ・ アメリカ船モリソン号で日本へ向かう。しかし鎖国下の日本で 江戸湾浦賀港に近づいたが、幕府の「無二念打払い令」による砲撃のため、断腸の思いで退去。 鹿児島湾にも入港したが、またしても砲撃に遭う。 この日を境に祖国を捨て、上海に住む
1843年〜1858年
上海にて日本人漂流民の援助
 ・摂津の永住丸、紀伊の天寿丸、摂津の栄力丸、半田の永栄丸など
1849年
通訳として活躍
 ・ 中国人林阿多(リン・アトウ)と名乗り、イギリス海軍の軍艦マリナー号で浦賀に来航
1854年 
日英和親条約の締結
 ・ イギリス海軍スターリング艦隊の通訳として旗艦ウィンチェスターで長崎へ
 ・ 「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」(1855年1月13日発行)に音吉のことが掲載される
1862年 
シンガポールでの音吉
 ・ 家族と共に上海からシンガポールへ移住。
 ・ 幕府の遣欧使節団(福沢諭吉)や森山栄之助(ペリー来航時の幕府主席通訳)に会う
1864年 
イギリスに帰化した日本人第一号
 ・ ジョン・M・オトソンとしてイギリスへ帰化
 ・ 3年後の1867年波乱の満ちた生涯を終える
「音吉の足跡を追って 草の根活動の10年」 (平成14年 美浜町企画開発課)から年表を製作

 1832年10月11日〈旧暦〉、小野浦の樋口重右衛門所有の千石船「宝順丸」(150トン位長さ15m位)は、尾張藩の米や陶器を江戸へ運ぶため、鳥羽を出帆した。
 この船に音吉(数え14歳)、兄の吉次郎、そして他に久吉(15歳)、岩吉(28歳)ら14人が乗り組んでいた。

 しかし遠州灘沖で嵐に遭い、舵が壊れ、船の転覆を避けるため帆柱を折り、そのまま黒潮に乗って14ヶ月漂流を続けた。すでに郷里の人々は遭難したものと諦めて、小野浦の良参寺に、お墓を建て、乗組員の霊を慰めました。
 太平洋を漂流中、すでにこの時代には海水を煮詰めて蒸留水を取る方法も知られていましたが、乗組員は雨水や積荷の米で飢えをしのいでいたが壊血病で次々と倒れていきました。
 そしてついに1834年1月、米国ワシントン州沖に漂着した時には音吉、久吉、岩吉、の若者3人だけが生き残っていました。その後に彼らには数奇な運命が待ちうけていました。

  3人が漂着したのは現在、アメリカインディアンの保留地とされているフラッタリー岬付近(ワシントン州北端カナダ国境付近)であった。ここで3人は現地のマカ族に捉えられ船は壊された上に、なんと彼らは原住民の奴隷にされてしまいました。
 当時、この地域は毛皮の取引などをしていたイギリスのハドソン湾会社の支配下にありました。3人の船員が漂着したという情報は、音吉がスケッチした遭難時の絵や積荷の美しい陶器が現地部族の手を経てコロンビア川のフォート・バンクーバーに居住していたハドソン湾会社現地責任者として著名なジョン・マクラフリンのもとにも届きました。
(このあたりの歴史的な記述が「奇談・音吉追跡」田中啓介著の中で詳しく資料説明がされています。
 彼は船を派遣して3人の日本人を買いもどし、フォート・バンクーバーに連れてきました。幸運にもそこで彼らは英語教育を受ける機会を得ました。それはハドソン湾会社にとって鎖国している英国と日本との交易のために開国交渉に役立てるという目的のためでもありました。
 その後かれら3人は1835年6月、イギリス船イーグル号でハワイを経由してロンドンに送られ、ロンドンで1日だけ上陸を許され市内見物をしました。 ロンドンの土を踏んだ初めての日本人となったのです。 マクラフリンの目的は、日本の漂流民を日本に送り返すことによって、日本政府と通商を開くことだったのですが、予想に反してイギリス政府にはその気がなかったため、そこで彼らはマカオに送られ、そこから日本へ送還されることになりました。
 マカオではドイツ人宣教師カール・ギュツラフに預けられ、彼らに宣教師に日本語を教え、自分たちは英語を習いました。 ギュツラフは3人を相手に聖書の翻訳に取りかかり、「ヨハネ福音書」と「ヨハネの三つの書簡」の日本語訳を1年がかりで完成させています。 1837年2月には九州の漂流民4人がマカオに漂着。音吉ら3人と合流し異国で2組7人の日本人たちは力を合わせて生きていくことになりました。
 このときアメリカ商人C.W.キングによって7人の日本人を送還する計画が持ち上がりました。熱心なキリスト教徒でプロテスタントの中国宣教への協力者でもあったキングはマクラフリンと同様に日本の開国交渉を行いたいと考えました。
 1837年7月4日、7人はアメリカ人チャールズ・キングのモリソン号(564トン 写真右作者不明)で日本へ帰還することになりました。しかし帰国を一日千秋の思いで待ちわびて熱望していた音吉たち日本人漂流民の想いは、なんと無残にもうち砕かれました。 それは7月30日に江戸湾入口の浦賀に着いたモリソン号は当時まだ鎖国下の日本であったため、無警告でモリソン号は砲撃を受けました。
 やむなくキングは幕府との交渉をあきらめ、薩摩藩に頼ろうとしましたが、鹿児島でも同様に砲撃され、ついに日本との交渉を諦めてマカオに帰還しました。 不運にも鎖国状態にあった日本への帰還は5年早かったのであります。
 それでも外国船を受け入れる可能性が高かった長崎へ行けば上陸の可能性がありましたが、日本との貿易を独占しているオランダ人の妨害を危惧して、幕府との直接交渉を意図し江戸に直行したのです。
 当時幕府は“長崎に来るオランダの定期貿易船以外のヨーロッパの船は、理由を問わず打ち払ってしまえ”、という「打払い令」(1825年発令、1842年撤廃)を下していました。
 7人の日本人たちは残酷にも故郷の海岸を目前にしながら政治上、外交上の複雑な問題が自分たちの帰国をはばむ結果となりました。 
 しかし彼らが偉大であるのはその後の行動である。7人の日本人たちは今後自分たちのような不幸を漂流民が繰り返さないために、マカオに送られてくる日本人漂流民を援助しようと誓い合ったのであります。
 それから20年あまりの歳月で7人の仲間のうち何人かは死んだり行方がわからなくなりましたが、上海に住んでいだ音吉は1843年、イギリスのデント商会に就職。同じ職場のイギリス人女性と結婚しました。そして新たな漂流民となった日本人が来ると、自分が帰国できなかった悲しみを乗り越えて、中国船で彼等が日本へ帰国できるように外国と折衝し、その中継基地の役割を果たしました。灘(現神戸市)の栄力丸の漂流民12人を始め、たくさんの日本の漂流民を助け、日本に送り返しています。最後に援助した船は、知多郡半田村(現半田市)の船でした。 西宮の廻船永力丸の漂流民13人も、音吉の尽力で中国船での日本帰国を果たしています。
 また彼はイギリス海軍の通訳として2度日本を訪れています。1回目は捕まることを恐れ中国名を名乗り、2回目の時は妻子がいたので帰国の意思はなくなっていました。 1849年、イギリス軍艦マリナー号が浦賀と下田を測量した際は中国人名、林阿多
(リン・ア・トウ写真左上:作者不明)と名乗って日本語の通訳者となっていた。そして1854年には、スターリング艦隊の通訳者として長崎へ、英国と日本の最初の条約、日英和親条約の締結に大いに貢献した。彼はこの時すでに、イギリス市民権を得て、ジョン・マッシュー・オトソンと名乗り上海のイギリス人居住区に住みかなり裕福な生活をしていました。
 その後音吉はイギリス人妻が病気で亡くなり、後にマレー人と結婚し、1862年家族と上海を離れ、妻の故郷であるシンガポールへ移住。シンガポールではなんと日本が開国して以来最初のヨーロッパ派遣団と面会。この中に福沢諭吉や前述のマクドナルドから英語を習った森山栄之助にも会っています。

 1864年、音吉はジョン・マシュー・オットソンとして、日本人としては初めてイギリスに帰化。その3年後の1867年1月19日、49歳で波乱の一生を終えブキティマ地区のイギリス人墓地に埋葬されました。2004年6月26日付けの中日新聞で音吉ゆかりの愛知県美浜町歴史研究グループが音吉の埋葬地を発見した紹介記事があります.(クリック拡大)

  後年(1879、明治12年)長男ジョン・ウイリアム・オットソンが横浜にきて、父の遺言に従って横浜で帰化を申請するがその後の消息は不明である。神戸のいくつかの商会で勤務した形跡があるが、当時の日本にはまだ帰化にかんする法律が未完成であったので帰化が出来なかったものと思われる。

追記:2003年6月12日読売新聞名古屋版で、音吉の研究を続けられている尼崎市在住の田中啓介氏が神戸市中央区に戸籍調査を依頼した結果、なんと音吉の子孫が神戸に住んでいたとの紹介記事がありました。(記事クリック拡大表示)
      

   音吉の遺灰がシンガポールから里帰り。(美浜町のページより。)
 
最後に(Epilogue)

  現存する日本語聖書(分冊)の最古のものは、1837年、シンガポールの堅夏書院で、ギュッラフがマカオにて、この三人の漂流船員の助けを借りて翻訳した、「ヨハネ福音書」・「ヨハネの書簡」であることが知られています。 *引き続き音吉に関する情報があれば教えてください。
 歴史上確認されている音吉の足跡と偉業(まとめ)

1.記録に残るアメリカに上陸した最初の日本人。(ジョン万次郎よりも10年前。)
2.積荷の瀬戸物をはじめてアメリカに伝えた。(上陸地で積荷の陶器破片が発見されている。)
3.幕末に開国をせまったペリー提督に影響を与えた。
4.最初の日本に上陸したアメリカ人ラナルド・マクドナルドに影響を与えた.(推定)
5.英国人国籍を取った最初の日本人でもあり英国海軍水兵であった。
6.日本人で最初の3カ国語(英語、中国語、日本語)の堪能者。
7.最初の日本人クリスチャン(監督教会のプロテスタント)
8.ヨハネ伝聖書を日本語に翻訳した最初のの人物。
9.1854年に英国国王に代わり長崎港の開港に尽力した。

  音吉について詳しいページは*official Otokichi page(英文)を参照。
 
 このページを作成したのはボーイスカウト兵庫連盟の三吉の碑の建立に興味を持ち、関連することを調べる中で驚くべきエピソードや感動する物語を見つけました。そしてみなさんに少しでもその感動を伝えることが出来ればという思いから作成しました。
  しかし歴史探訪に関心のある方だけでなくネット上には多くの関連サイトがあります。国際化や異文化理解・共生社会が叫ばれる昨今ですが、はるか150年前にすでに三吉のような漂流民の物語があったこと。当時15才の少年音吉が漂着した異国での逆境の中、逞しく行き抜いた精神力に我々のボーイスカウト運動と共通するものがあります。音吉の物語をもっと多くのスカウト諸君が関心をもってもらいたい。 IT化時代の中でネットサーチをしたりまた自分で辞書を引き調査すれば当時の日本の置かれた状況や時代背景など、異文化理解として、違った考え方や何か得られるものがあります。このページがその史実を追う機会となれば幸いです。

  
 追 記
兵庫県ボーイスカウト振興財団
 創設30周年記念事業


    平成17年度に創設30周年を迎えるあたり、兵庫県ボーイスカウト振興財団では現在三吉ゆかりの地へ宝順丸(模型)を贈る計画が進んでいます。
 模型のサイズは長さ2m船幅50〜60cmの精巧な模型で船大工として兵庫県赤穂市文化財選定保存技術者である湊隆司氏が精魂こめて製造細工に着手されています。来年の5、6月頃には完成予定です。
(左図完成図-クリック拡大表示。)

 三吉顕彰碑とあわせてこの日本の匠というべき精密な和船細工品を米国に紹介し、また史実を通じて三吉を顕彰し、日米青少年交流に役立てるという意義深い事業であります。
 輸送費捻出の問題や寄贈品設置場所の交渉、セレモニーのプログラムなどこれから解決すべき問題も多々あり、現在この事業は兵庫連盟国際委員会が担当して進められる予定です。 私も国際委員の一員ですが、今後「三吉の会」なども設立し、広く関心のある方へ協力を求めてこの事業を成功させていきたいと考えています。

 船大工湊隆司氏が匠の技に精魂を傾けて作られた宝順丸がついに完成しました。

 7月初旬に県連盟関係者が湊隆司氏宅の工房兼居間にて完成まじかの宝順丸を見学しました。長さは約2mで素材も本物の船同様に文献をもとに木材を使用部所毎に素材を使い分けて正しく縮尺して制作された宝順丸を見て一同が息をのむほどの精密な出来ばえに大いに感激しました。

2005年9月4日 兵庫連盟結成55周年活動振興大会で披露される。
 姫路市で開催された振興大会で湊氏が宝順丸を持参。多くの加盟員に紹介されました。
     宝 順 丸
 
着 工  平成16年10月     完 成  平成17年7月
 製作者  湊 隆司(赤穂市指定文化財選定保存技術者(和船建造))
 船体寸法(縮尺 1/11)
 全 長  2m13cm    船 幅 60cm  深 さ    45cm  帆柱高 1m90cm
 帆横幅 1m20cm(24反帆)        帆高さ 1m30cm
 重 量 約40kg(実物 250トン)
 使用材(実物建造と同じ材質を使用。)
  日向杉(宮崎県産) 主として船体すべて  桧(ヒノキ)材    船首、船先骨材、擬装
  欅(ケヤキ)材    船渡上段用材      松材         船内部造作
  樫(カシ)材      舵に使用

                       
宝順丸の展示紹介記事

レプリカの引渡式
(場所:県庁2号館1階渡り廊下)
(財)兵庫県ボーイスカウト振興財団が設立30周年を記念して作成した江戸時代末期の廻船「宝順丸」のレプリカが、日本ボーイスカウト兵庫連盟に寄贈され、財団の鬼塚喜八郎理事長から連盟長を務める井戸知事に目録が贈呈された。

 2005年9月4日から兵庫県庁2号館のロビーに一時的に宝順丸が展示され、多くの方々に一般公開致しておりました。来春には三吉らの票着地である米国ワシントン州の博物館へ寄贈される予定ですので実物見学はお早めに。 

  (左の記事をクリックすれば拡大表示します。)
  10月5日付読売新聞阪神版より。


 10月22日

 ボーイスカウト兵庫連盟関係者と、宝順丸の寄贈先であるマカ族文化研究センター所長の親書を持参していただいた谷田部氏との記念撮影。
 

 引き綱の木製滑車や舵をはじめ、船体の内部までも本物と同じように轆轤や荷物倉庫、甑(炊事室)部屋など精巧に作られています。


展示紹介パネルの内容
紹介パネル(PDF)
   宝順丸の出航式 2006.4.19.
 兵庫県庁2号館1階渡り廊下で展示されていましたが、寄贈先が決まりボーイスカウト兵庫連盟長である井戸兵庫県知事、製作者である湊隆司、山田県連盟理事長ほか関係者が見守る中、宝順丸の出航式が行われました。
 宝順丸は梱包され船積みし、シアトル港へ6月初旬到着予定。 寄贈先のワシントン州マカ族文化研究センター(Makah Cultural & Reseach Center)で兵庫連盟からの代表派遣団列席のもとに6月14日に贈呈式が行われる予定。
  4月19日付 朝日新聞の紹介記事。(クリック)
 兵庫連盟ではマカ族文化研究センターへの宝順丸の贈呈式を6月14日予定しております。贈呈式には兵庫連盟から山田連盟理事長を団長とする兵庫連盟関係者と加盟員による派遣団を募集し日米友好のシンボルとしてより有意義な事業と考えております。派遣団への参加ご希望の方は事務局までご一報ください。 出発は6月9日帰国は6月19日の予定です。

参考資料 
磯井行氏のホームページ(鎖国下の日本ー異国を見た男たち(クリック)
に音吉はじめ多くの漂流民の史実を体系的に詳しく紹介されているすぱらしいサイトです。
追記:三吉の物語について絵本が刊行されました。詳しくは下記のページへ。
 音吉の会 http://www.otokichi.net
◆.「日本音吉漂流の記」(発行美浜町役場編集日本福祉大学) ◆美浜町役場の資料

◆The Real-Life Story of Otokichi 日本音吉漂流の記(春名徹 日本福祉大学客員教授)
◆Pacific Rim Adventure Jo Ann Roe著 Washington State University Press
http://www3.ocn.ne.jp/~hienet/ (半田国際交流協会HP「まじわり40号」より一部引用。)
音吉(乙吉)の難破と聖書和訳
official Otokichi page(英文)を参照。

備考:このページは多くの青少年がこの物語に関心と興味を持って真の国際交流への理解をはかることを目的にWEBページ上で作成しました。
 文責は制作者にあり、したがって記載内容はページ
制作者の所属している日本ボーイスカウト兵庫連盟とは関係がありません。また記述にあたってはネット上で公開されている資料等を多数使用しました。すべて引用先を明示し紹介しておりますがもし著作権表示や誤記述などで問題がある場合はお知らせください。
                         ホームページへ